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世界はブリコラージュ

こんにちは。多賀です。

ブリコラージュ、という言葉を聞いたことがありますか?

もともとは、フランス語で「日曜大工」といった意味らしいです。

庭の外れにある小さな納屋でその場にある木片や釘やなんか、寄せ集めたあまりものと睨めっこして、役に立つものを即興で作り上げていく。そんな日曜日。遠い過去、遠い場所ののどかな田園風景の一角が思い浮かぶようです。

このことばの意味を拡張して、人類学の世界に導入したのがレヴィ=ストロースです。
(僕の人類学に対する興味は以下の記事でも紹介されています!)

以下、厳密に書きすぎるとキリがなくなりそう(だし、僕にそもそもそこまでの理解がない)ので、正確性については大目に見ながら読んでいただければと思います。

有名な著書『野生の思考』のなかで、レヴィ=ストロースは「科学的思考」と「呪術的(神話的)思考」がたんなる二項対立ではなく、互いに本質的な共通点を持ち、また現代を生きる我々も「呪術」や「神話」の思考法の恩恵を受けていると述べています。

どういうことか。

実は、科学も呪術・神話も、その本質が「カオスな世界に因果律を導入し、秩序を作りだす」ことにあるという点で共通しているというのです。
そう言われればそうか、という気もして面白くはないでしょうか。

一方で、違いについてはだいたい以下のように述べています。

「科学」は、様々な事象の背後に共通する「普遍的な性質」(構造)から出発して具体的な事象を説明し、さらにそこから別の構造を見出す。
きわめて客観性を重視した営みであり、現時点で見出される構造によってわかること「のみ」を徹底的に説明し尽くし、わからないことは「わからない」という潔い態度をとりつつ、少しずつ理解の地平を広げていく。

「神話」は、現実の具体的な事象を寄せ集めて、それを自由に組み替えることで現実と整合的なストーリーを作り出す。それが、その社会における「構造」となる。
その構成に手を加えた人の主観が反映される営みであり、科学では因果関係が見出せないことにも、現実の出来事を踏まえた上でもっとも整合的な説明を加えることで、世界を説明し尽くすことを試みる。

語弊を承知で簡潔に対立させてしまえば、科学は「構造→出来事、客観的、漸進的」で、呪術・神話は「出来事→構造、主観的、跳躍的(急進的というと少し違うイメージになってしまうので…)」となりますでしょうか。

さて、すでに「そういうことか」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、この「神話」的思考法について説明する際にレヴィ=ストロースが比喩的に引き合いに出しているのが「ブリコラージュ」なんですね。
具体的な物事を目の前にして、作者の主観をまじえながら自由に組み替えて一つのまとまりを持った構造を作り上げる、という点で両者は非常に似ていて、なるほど彼がこれを引き合いに出すのもうなずけます。

ちなみに、先ほど「現代を生きる我々も『呪術』や『神話』の思考法の恩恵を受けている」と述べましたが、何か思い浮かぶものはありますか?

卑近な例として授業で上がっていたのは、「ありあわせの料理」ですね。冷蔵庫に眠っている残り物を使っておいしい料理を作る術は、実はそこに「神話的思考」を含んでいたのです。

教授の方は、「究極的には友達作りもブリコラージュだよね」とおっしゃっていました。
世界80億人全員をくまなく検分して、「誰が一番私ににあってるかな…」なんて考えることができない以上、自分が今出会っている人たちの中で選択的に友達を増やし、自分にとって最適な「ポートフォリオ」を作っていく過程はなるほど「神話的」です。少し味気ない見方ですが…。

さらにいえば、僕は一人ひとりの「世界観」もブリコラージュだと思います。
「世界観」というと曖昧で大仰ですが、自分の外側に対して向き合うときの根っこにある姿勢、などというと良いでしょうか。
それが進むと、(自分も就活などしててよく問われますが)「あなたにとっての理想は何?」「あなたが解決したい社会課題は何?」みたいな問いにつながってくるわけです。
そういうときにその回答に差が出てくるのは、人によって生まれにも育ちにも多様性があって、特にその「経験」の違いが世界観の構築にも違いを生み出すからでしょう。
それまでの人生の様々な経験から生まれる示唆をその人なりに自由に組み合わせて、世界を包括的に認識し、自分の行動指針を作り上げる…この営みは非常に「ブリコラージュ的」でしょう。

こう考えていると、「科学」だけでなく「呪術」や「神話」的なものがいかに人間にとって大事なのかがわかってきます。
だって例えば、世界観を「科学的」に構築しようとしたら(そんなことが仮に可能なら、ですが)、世界の見方は一様になってしまい、そこから生まれる「生きる意味」や「行動指針」にも多様性が生まれなくなってしまいます。そんな世界に「私」「あなた」こそが存在するべき理由はありません。ちょっと怖いですね。

もちろんブリコラージュな世界の見方は不完全で穴だらけです。でも、そんな愛すべき不完全さこそが多様性を生み出し、社会を発展させてきたとはいえないでしょうか。
そう考えると、少し気が楽になりませんか?

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