人生に影響を与えてくれた本『異邦人』について語る。
今回は大変感銘を受けた本『異邦人』について語ります!
※あらすじ程度のネタバレを含む本の紹介はこちらから
出会い
この本の存在を知ったのはドラマだったと思います。
『相棒』の凄く若いシーズンです。
少年が人を殺したと言う流れで、異邦人が引用されていました。
太陽のせいで人を殺した。その部分が印象的でずっと頭に残っていました。
しばらく経って高校生になった頃、本屋へ行ってたまたま異邦人を見つけました。
当初の目的は『悪の教典』を買う事だったと記憶しています。
だから文学には興味のない頃です。
半ば格好つける様な形で、異邦人を読みました。
そして全く分からなかったのです。
本は薄いのに全くページが進まない。
文体も硬いし、何が言いたいのか分からない。
文字を追うだけの形で、ラストまで読み終えた感想は”よく分からない”でした。
ただ2年ほど経って大学へ入り、もう一度読んでいると、ハッとすることが多くありました。
タイトルの意味や主人公ムルソーの苦しみ。
自分は自分の中でなく、他人の中にも存在するという事。
自分を他人に規定されることの苦しさ。
周りに配慮しなければと、怯えて過ごしていた自分がなぜ苦しいのか。
自分なりに解釈できるようになりました。
本当に買って良かったと、思っている本です。
注目ポイント
1:日常描写
第1部のムルソーが送る日常が好きでした。
アルジェの風景は知らないけれど、ムルソーの言う通りなら、場末の街。
海が近くて太陽の光が強い。
人通りはあるけれど、うるさいと思う程ではない。
アパートで暮らし、港の近くにある事務所で働いている。
窓へ出て、タバコを吸って、チョコレートを齧る。
そのまま雨の降る空をゆっくり眺める。
これらムルソーの日常が僕は好きだし、物語としても読者をムルソーの側に立たせることに役立っていると思う。
ムルソーが働き者なのも好きだ。
ある程度ムルソーに感情移入できるような設定に、カミュがしたのだと思う。
この日常があるからこそ、第2部で不条理を感じるようにできているのでしょう。
それにしても僕はムルソーの日常が好きだ。
ミルク・コーヒーを飲みたくなります。
2:構成の妙
タイトルについては最初、「外国人」という意味にしか捉えていませんでした。
しかし主人公のムルソーは現地人風だ。
では第1部の外国人とは?
これはアラビア人の事でしょう。
そして第2部で、現地人であるはずのムルソーが阻害されています。
俺たちとは違うのだろう。
あるいは存在しないかのように主人公が扱われる。
この点に於いてムルソーは、自分たちとは違うと思われ、理解されない外国人になっている。
この2部構成の見事さと、タイトルが持つ意味に、僕はやられました。
よく練られている!と思ったのです。
自国内で自分が外国人になる事がある。と言う恐ろしさ、現象に驚きましたし、納得もしました。
この納得も構成の妙があってこそ。
説得力のある小説でした。
3:太陽についての個人的解釈
異邦人を語るうえでこのテーマは外せません。
太陽のせいだ。
人を殺した理由についてムルソーはそう語りました。
まずムルソーの太陽に対する姿勢について、僕なりに明らかにしたいと思います。
養老院ではそう言っています。
風景としての太陽は嫌いではないのかなと、僕は思いました。
しかし……。
とも言っています。
それから暑い、とかタールをきらきらさせる、とかマイナスイメージを持っていることも確かです。
これ以降は、ほとんどマイナスイメージが付き纏っていたと思います。
ムルソーは太陽を浴びる事に関してはネガティブなのだと思います。
外出が嫌いと言うタイプではないのですが、とにかく太陽を浴びると思考が鈍る。非人間的になるようです。
風景としては好きだけど、実際に浴びることに対しては良いイメージが湧かない。
これがムルソーの太陽に対する感覚なのかなと思います。
では、なぜ太陽に悪いイメージを持っているのか。
これはムルソーという作中のキャラクターが持つ、宿命なのだと思います。
ムルソーという言葉はそもそもフランス語の「死ぬ」と「太陽」の合成語らしいのです。
ムルソーは太陽によって死ぬことが決まっている、と言えるのでしょう。
太陽によって死ぬと決めたのは著者のカミュです。
ムルソー個人の中にある問題ではないのではないかと思います。
今度はなぜ、カミュは太陽と死を結び付けたのか、という疑問が湧きます。
ここから先は僕も自信がありませんし、妄想かもしれません。
暑いアルジェリアで生まれ貧しい生活をしたカミュは、太陽が嫌いなのかな。とも思いました。
が、その辺りは分かりません。
しかし考えている内にもしかすると、絶対的な存在として太陽を捉えていたのかなと思いました。
人間からすると絶対的な太陽。
そしてムルソーからすると絶対的なのは、著者のカミュです。
つまり太陽はカミュ自身のことで、ムルソーは絶対的な存在であるカミュ(太陽)によって死なされる、死ぬことが決められている。と言えるのではないでしょうか。
決して愚かではないムルソーの思考が鈍るのは、カミュがそう作ったから。
メタ的な面白さをカミュが込めたのではないでしょうか。
この説ならカミュが太陽にマイナスイメージを持っていなくても成立します。
カミュは太陽として作中に出演したのではないでしょうか。
ムルソーは仕組まれたかのように不条理な目に遭っている、と言う様な事を漏らすシーンがあります。
読んでいる時はムルソーに感情移入していますが、実際はカミュがそのように書いているのだから、仕組まれているのは当たり前です。
しかし、ここまでくると妄想です。根拠は何もありません。
このように好き勝手考えられるのが、名著の魅力でもありますね。
太陽に関する個人的な解釈。あるいは妄想は以上です。
4:ムルソーはサイコパス?
ムルソーは話が通じないとか、人の感情が無いのではないかと思われがちです。
実際、作中でもそのように言われています。
さて、太陽のせいで人を殺した。
なんて言うキャラクターを見たら、サイコパスな人物像を想像するのが現代人。
ムルソーがサイコパスなのか考えていきたいと思います。
良心の呵責は無いかもしれません。
裁判中に自分が罪人として扱われている事は理解しています。その時、自分に罪があるのだと考えています。
しかし悪いとは思っていないように思えます。
(僕も読んでいて正当防衛的な側面があると考えている)
さて、利己的かどうか。
うーん。自分の欲に忠実ではありますが、その為に他者を貶めたりはしていません。
特に彼は嘘を吐かないのです。
「愛している?」 という問いに対して馬鹿正直に、「愛してはいない」と彼の中の愛の定義を用いて発言しています。
利己的とまではいかない性格。
それに彼には友人もいます。
レエモンやエマニュエル、マソン、恋人のマリイ。
また生業についても、よく働いた、と自分で言っています。(人を殺める前までは)社会から排除はされていません。
ムルソーは自分の基準に忠実な、普通の人だと思います。
また学生時代には野心があったという事も仄めかしているので、後天的にムルソーはムルソーらしくなったのだと思います。
普通の人と同じですね。
彼は非サイコパス的で、普通の人だと言うのが僕の考えです。
5:文体の良さ
硬い。 と、言うのが最初の印象です。
本当に、~た。~た。~た。の連続です。
でも語りはムルソーですからこんな感じなのだろうと思います。
ムルソーの感覚で書くのは作り手からすると、勇気の要りそうな事ですが、カミュはやってのけた。
そこに良さを感じます。
過度に読者に配慮しない姿勢が好きです。
さて、話は変わりますが、異邦人の書き出しは「今日、ママンが死んだ」です。
さて、2文目は?
「昨日かもしれないが、私には分からない」
です。
ムルソー的発言が作中で一貫しています。
この言葉のチョイス、使い方が僕は好きでした。
6:デカルトとサルトル
異邦人は実存主義的作品と目される事もあったそうです。
しかし著者のカミュと実存主義を打ち出したサルトルは、お互いに「僕らは違うよね」と言っていたそうです。だから厳密には、カミュは実存主義ではないのでしょう。
ただ、僕も読んでいてサルトルっぽいな。と思うトコロがありました。
※僕は専門家ではないし、哲学に詳しくもありません。ご了承ください。
と言うのもまず、自分の中に自分があるという事はデカルトの「われ思うゆえに我あり」で証明されたと思います。
しかし他者から見た自分もいるぞ。
と言うのが恐らくサルトルの考える、対他存在なのだと思います。
そしてムルソーはこの対他存在、つまり大衆の考えるムルソー像に苦しめられているのではないかと思いました。
だからサルトル風に思われる事もあったのではないでしょうか。
自分の事だけでなく、他者の中にも自分が居る厄介さ、苦しさはこの本を読まないと知りえなかったと思います。
本人たちは違うと言っていますが、僕は実存主義の話も含まれているのかな。と思いながら読んでいました。
7:司祭との会話
ムルソーが司祭と話すシーンがあります。
この辺が特に辛い。
ムルソーは「神を信じていない」と正直に言います。
しかし舞台としてはキリスト教が広まっています。
ですから司祭とムルソーの話はかみ合わない。
いやそれだけでなく司祭は良かれと思って、ムルソーを天国に導いてやりたくて、宗教的な考えを押し付けようと試みるのです。
司祭からすれば、ムルソーが意地を張っているだけで、本当は神を信じているのだろう、と考えているのです。
ほとんどの人がキリスト教徒なのでしょう。
司祭はムルソーになんとか神の存在を認めさせようとします。
宗教の押しつけは読んでいて本当に辛いものがありました。
無茶なんです。
また司祭の方にも悪意が無いから、さらにやっかい。
こういった状況は日常生活でも、よく起きています。
例えば世間の親と言うものは、子供の為という免罪符を使って勉強を強いたり、職業を強要したりする。
子供の意思は尊重されているのでしょうか。
本当はどんな子供なのか、理解されているのでしょうか?
ムルソーと同じように苦しいハズです。
自分の事ではなく、世間の話で自分を語られているのですから。
まるで透明人間のように扱われてしまう。
この他者からの決めつけが、この本が描く最大の不条理だと僕は思いました。
何が辛いのか。なぜ辛いのか。
それは他者に自分を決めつけられるからだと、この本のおかげで知る事が出来ました。
僕としてはムルソーのように苦しむ人が居なくなればいいのに、と思うのですが……。
これは人間の構造上無理だろうな、とも思います……。
8:死にゆくムルソー
司祭との会話が終わるとムルソーは死を覚悟します。
最期にムルソーはこう言っています。
ここの解釈については人それぞれな様で、大衆を悪とすれば自分は善の側に立てると言うものや、父親に近づこうとしていると言うモノもあるみたいです。
個人的には大衆のなかにムルソーが居るから、ムルソーは孤独ではなくなる。という意味だと思っています。
大衆の中にムルソー像が生きていますから、ムルソーは孤独ではないという話かなと思います。
そして人間とは対照的に、自然(世界)はムルソーを~な人、と決めつけないという事に気が付き、ムルソーは優しい無関心に包まれます。
ムルソーは、太陽以外の自然と上手く付き合うことが出来たのだろうと思います。
そして他人からは上手く理解してもらえなかった。
友人や恋人とは上手く交際できていただけに、この辺りが不条理を感じさせます。
他者からの無理解と押し付けは、いつでもどこでも起こりうると言うのがこの作品の普遍性であり、啓蒙でもあるのかなと思います。
全体的な感想
生きているうちに読めて良かった。
と、言うのが率直な感想です。
なぜ苦しいのか理解した上で苦しいのと、全く分からなくて人生が苦しいのでは違うと思います。
今、苦しいのは何かを押し付けられているからだ、と感じることができるようになったのはこの本のおかげだと思っています。
自分としては、イメージや意見の押しつけは避けようと思えました。
『異邦人』は人生に大きな影響を与えてくれた本です。
読めて良かったですし、ここに思った事を書き込めたことも良かったと思います。
長くなってしまいました。以上で感想を終わります。
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