マテリアル弁証法〜松本清張『白と黒の革命』(1979)
松本清張『白と黒の革命』(1979)は、1978年に起きたイラン革命を題材にしたドキュメンタリー風作品である。この革命、当方が大学受験を間近に控えた冬に勃発した世界的大事件であった。
本作品、清張が国内推理モノから国際サスペンスへの拡がりを志向した意欲作の一つと言えるものの、決して成功作とは思えない。この点は、始めに押さえておきたい。
それでも随所に、この作家の視座や行動力が垣間見えるところは興味深い。また、イスラム教国家の復古的為政の描写に、ハッとさせられるところもある。40年以上前の文章であるにもかかわらず、である。
手をつけていなかった清張作品の一つでもある。古書で廉価で手に入れたのは、いつものパターン。
それにしても、こういった国をまたぐストーリーの展開の難しさを感じさせる。主たる原因は、執筆者が旅行者で、否が応でも傍観者となりがちとなり、その限界を超えられないところにある思う。清張も、商社マンの協力を得るなど現地への密着への努力はしている。しかし皮肉にも、そのような取材過程が、かえって商社の情報優越性を暴露してしまっている。
情報の面だけではない。取り扱う対象が革命や国というだけでなく、巨大企業も含まれており、あたかも鬼に飛びかかる一寸法師のようなシチュエーションとなっている。
アメリカで「エクソン」「モービル」「ガルフ」「テキサコ」などメジャーの石油会社を見物したときに、自身の無力を慨嘆する場面がある。
さらに、行動派として現地に飛んでいると言っても、取材源が信用のおけるものだったかどうか。読み進めながら、信憑性には疑問符がついて回った。小説の自由度という有利さの反面、デメリットを示す部分かと思う。
では、ルポルタージュの方が正当なアプローチだったのか?
そうとも思えない。どのような読者を想定するかによるだろう。本作は「文藝春秋」への連載モノである。エンターテインメント的な接近は妥当で、当時としては新鮮な選択だったかもしれない。また客観性に基づくルポとして仕上げるには、時間的制約もあったかもしれない。
「事実」という言葉から昨今を振り返るならば、果たして我々の手元に公正中立な情報が伝わっているだろうか?
届けられる個々の記事やWEB情報は、全く信用できないというものでもない。というか、ある程度は信用せざるを得ないだけだ。そこで特に危惧されるのは、情報の取捨選択である。内外のニュースをを問わず、つい最近まであれほどホットに取り上げられていたトピックが、いつのまにか微々たる報道に成り下がっている。
怖いのは、ネガティヴ報道が続いていた某国などについて、知らぬ間にポジティブ情報が小出しにされていたりすることである。月日を経れば、次第に肯定的情報はすり替わっていくと予想できる。ニュース番組だけでなく、バラエティ番組などにも翼賛的情報が滑り込ませてある。姑息とも言うべき操作であり、この程度で視聴者を騙せると考えているなら大間違いだ。
清張に戻ると、氏は行動によって、そして自らの眼を通して、情報を再構成しようとする。今で言う「情報リテラシー」の発揮である。その姿勢は他作品にも一貫している。背景には、知識人に対する不信感や対抗意識があると思われる。
イランの知識階級の行動力欠如について、情報提供者の絨毯商人・ハムサビには、こう言わせている。
主人公・山上(明らかに松本清張)は商社員・長谷に質問。長谷は応える。
一方で、イラン人大学生の急進分子に目を向ける箇所もある。同じく長谷との質疑応答。
そういえば、氏に『小説東京帝国大学』というのもあった。
松本清張は、かつての日本の学生運動には否定的だったと記憶する。しかし上記の学生の動向への言及からは、知識人に対する批判的視点の裏返しなのか、変化の兆しを感じさせた。
本作品における「白」と「黒」の意味は、読めばすぐに分かる。そういった二分法を超えて、松本清張が描出したかったのは、オイルという資源(マテリアル)を土台とした、ファンダメンタリズムと近代のせめぎ合いのダイナミズムであろう。また成功・失敗はともかく、氏の視点がかなり明瞭に吐露された作品ということができる。
写実ということではなく、ある種のリアリズムの作家、松本清張ここにあり、という感想を持った。