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【国際協力】世界を変えたいと思ったら読むnote

「世界を変えたい」

私はずっとそう思っている。

漠然と、あるいはくっきりと、そう何度も思う。

ひとがひとを殺し合い、傷つけあい、その世界の歪みは誰かのもとに訪れ、その誰かが泣いてしまうようなこの世界では、なにかがだめだ。

「なにか」がまだ明確にはなっていないけれど、私には変えたい世界がある。

世界を変えたい。このままじゃいけない。

私達は、平和と安全を望んでいる。

戦争がひとの手で起こされるものなら、なんらかの方法で止めたいし、止めるだけの力はなくても、虐げられたひとたちのために寄り添い、できる限りの支援をしたい。

災害がひとの手で作られた建物を壊し、ひとのいのちを奪ってしまうなら、その建物をもっと強くて丈夫で安心できるものにしないといけない。

戦争で苦しむひとたちと、災害で苦しむひとたちに共通するのは、心理的なトラウマを抱えている可能性が一般のひとと比べて高いということだ。こころの復興を成し遂げるには、やはり心理面からの支援が欠かせない。

そんなひとたちがすこしでも幸せになれるように、世界を変えたい。

そんなときに、私がいつも思い出すのは、Twitterで見たこの言葉だ。

「私が死んでいくときに、私が生まれる前と比べて、世界がすこしでも良くなるようにと思いながら、すこしでもできることをしていきたい」

私達が生まれたのは、なんらかの理由があるはずだ。

誰かを幸せにするため、自分が幸せになるため、その2つに集約できるのではないだろうか。

その2つは密接にかかわっている。

世界を変えたいと思うのは、誰かを幸せにするためだと思う。不平等や人権無視や格差や貧困などによって世界の隅に追いやられるひとたちを幸せにしたいと願う、その気持ちは本当にまぶしくて、素晴らしい。

ただ、そのためには、自分が幸せで、満ち足りていて、健康でなくてはならない。

それでいてはじめて、ほんとうにひとのことを気にかけ、大事にできるからだ。

自分の思考と判断は、他人に影響を及ぼすのだから、それが正常な精神のもとで行われていないと、それは歪んだものになる。

私利私欲を求めているか、あるいは過度な自己犠牲が過ぎているか、あるいは他人を巻き込んで不幸にしてしまうか、あるいは…。そういった負の連鎖をはじめることになってしまう。

国際協力は、自己犠牲では成り立たない。

かわいそうだからとなんでもやってあげたとして、それはあなたが過労などで倒れるか、あるいは現地のひとが「やり方を知らない」ままなんでもあげることにより、貧しさから抜け出せなくなることだってありうる。

あるいは、私利私欲でもいけない。

自分よりも「恵まれていない」ひとたちから搾取したところで、新しい貧困が生まれるだけだ。

必要なのは、健康な精神を持って、現地のひとたちに寄り添うことだ。

自分が健康で幸せなら、大概のことができるし、それは自分のためにも現地のひとのためにもなるだろう。

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