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美術とデザインとワークショップ。迷える社会人1年目→3年目、日々思うことをちゃんと消化…

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美術とデザインとワークショップ。迷える社会人1年目→3年目、日々思うことをちゃんと消化していくための記録です。わたしが楽になるために、わたしが思ってることを言う。

最近の記事

働くということ【後編】

悩める社会人3年目。 短い社会人経験ですが、『働くということ』を自分なりにかみ砕いてみました。 【後編】です。 ・ 5. 働く行為の意義。 働きはじめた頃は、なんでこんなことしないといけないんだろうってあらゆることで思っていた。 誰のために自分が行動するのか、それは本当にやる意味があることなのか、考えるたびに仕事が無意味な気がした。 いつのまにかそういうことを考えなくなったのは、自分の行為が誰かの役に立っている場面が増えたからだろうか。 働く意味というのは、社会課題の

    • 働くということ【前編】

      社会人になるにあたって、「働く」ってどんなことなのかを自分のことばで腹落ちさせたいなってずっと考えていた。 極論、働かないで生きていきたいけど、やっぱり今まで美術やデザインをやってきて、それを生業にすることが幸せなのだろうとも思っている。 何をしていれば自分は満足なのだろう、どう働けば好きに暮らしていくだけの環境を手に入れられるだろう、そういうことをずっと考えていた。 もやもやした思いはしばらく形にならなかったけれど、社会人3年目になって気づくといつのまにか自分の意見がぽ

      • 「会社員」を辞めようかな。

        大学を卒業して社会に出ることになった時、わたしは「働く」ことを選んだ。(美大にいると就活をするかしないか、という選択が最初にあるのです。) 第一に、経済的に自立する必要があると思ったから。いつまでも親に甘えられないという気持ちが強くあった。生活の全てを頼りきりだからかもしれない。せめてお金の面くらいは自分ひとりでも生きていける状況をつくりたいなと思っていた。(結局頼りきりな状況はずっと変わっていないのだけど。親いつもありがとう。)あと、自由になるためには自分のお金で好きなこ

        • 客観視の距離

          慣れや経験でしか解決できないものがあるとするならそれは「客観視」なのだろうと、社会人2年目のわたしは思うのです。 去年の自分がいかに新しい環境に溺れていたか、深呼吸して周りを見渡してみるだけでわかることがどれほどあるか。 これまで、わたしにとって「客観視」という言葉の意味は「誰かの視点に立って考えること」でした。ひとつの事象に対して、解釈がひとつではないという可能性を考えることでした。 だから社会人の大人たちの気持ちがさっぱりわからなくて想像もつかない状況では、まずスタンダ

        働くということ【後編】

          “問い”の質が人を育てる

          「仕事って結局、人間関係だよね」 人からもよく聞くし、自分でも強く共感するこの言葉。 大人になると人間性なんてそうそう変わらないだろうから、そうなるとあとは「関係性」をどうつくっていくかが仕事のやり易さを左右するだろう。 与えられた仕事がうまくいかない時、それはコミュニケーションがうまくいっていないということではないかと思う。個人のスキル不足の問題もあるかもしれないが、それは即時的に改善できないから問題になるのであって、スキルをカバーし合う意味でも仕事仲間とのコミュニケーシ

          “問い”の質が人を育てる

          人と人、気持ちの受けとめ合い

          なんだか気分が晴れなくて、思いつく対処をいろいろ試してみた。気持ちの波がある時に、なるべく自分の機嫌を取る方法。 たっぷり寝て疲れをとって、好きな漫画や動画にも集中して、気の許せる人とも出掛けた。 でもまだ、どこかもやっとする… 自分のこころを探っていたら、ふと 「わたしももっと自分の気持ちを話したいのに!」 って思ったんです。 何かが特別に辛いわけではないけれど、ため息をつくみたいに空気の入れ替えとして。気持ちの整理をしてみよう。 ・ どことなく、誰かに甘えたいような

          人と人、気持ちの受けとめ合い

          同調圧力!?専門性は評価できないという話

          会社のひとから面白い話を聞いたので記録します。会社の評価体制とその日本らしさについての話です。 ・ わたしはディレクターやプロデューサーという言葉で表されるような仕事をしている(今後する)わけですが、中にはアート職や技術職として専門知識を持って会社に入ってきた人も多くいます。 専門性が高いことでその人ならではの仕事が出来るし、専門性の高い仕事を扱えるのでそれを目指して入社する。 でもそういった人は少数派で、やっぱり普通に営業をやる人が大多数なわけです。それに専門性が高

          同調圧力!?専門性は評価できないという話

          わたしはなぜ"謝る"のか?

          社会人になってわかったことに「自分て思ってた以上にポンコツだ!!」という発見があります。 もともと勘違いや言い間違え・書き間違えはとっても多いし、間違えてからカバーするという対処法でどうにかいろいろ乗り越えてきてるわたしの人生。そもそも間違えることが駄目!という世界には本当に気が滅入る。 前にも述べたように、わたしは目に見えることしか理解出来ないアナログ人間なので、自分はデジタルなことに免疫がないと思っている。 "デジタルさ"というのはなんというか、ルールのない雑多なもの

          わたしはなぜ"謝る"のか?

          考え方と、それに伴う「共通言語」

          今回は「理系」と「芸術系」のギャップについて書いてみます。 ひとを理系文系で区切るなんぞなにごとよ〜みんな全部学んだらいいさ!と思っていたわたしですが、いざ理系コミュニティに身を置いてみるとそのギャップたるや…ここは外国ですか?と思うほどに文化が違くて、話の通じない、わけわからんことだらけの世界だったのです。 ・ 大学では造形ワークショップを通して、紙や絵の具で手を動かすことや、からだ全部で感じる身体的な経験が大切だと強くつよく感じていたアナログ派なわたしですが、入社して

          考え方と、それに伴う「共通言語」

          つよい人、よわい人

          ひとを順位付けることやヒエラルキーがある関係性に違和感を感じる。 違和感があるという表現より、水平な関係性に心底安心する、といった方が近いかもしれない。 不本意な理由でピラミッドの上位に位置付けられても困ってしまうし、客観的に納得できる理由で褒められないとうぬぼれているのではないかとほんとのことを確かめたくなってしまう。 反対に、勝手に見下されるのは腹が立つ。そういう視線を感じると打ち解ける気持ちを完全にシャットダウンしてしまう。 入社した最初は大勢の同期と一日中一緒に

          つよい人、よわい人

          ひとと場所と居心地

          わたしが自分にとっての合う、合わないを自覚し出したのはここ数年間での出来事で。心地良さ、楽しさ、好き!と思う気持ち、自分の心がぐっと動くことを敏感に探していたら、自分がすっごく「ありのまま」でいられる時とそうでない時があるのが分かってきた。 そして、美術を始めて"つくる人たち"の輪に入っていった時、そこはみんなが素直でありのままの世界だったと思う。ごまかさないで心に素直にならないと、いいものがつくれないからかもしれない(みんなはどうか知らないけどわたしはそうだよ)。 周りが

          ひとと場所と居心地