働くということ【後編】

悩める社会人3年目。
短い社会人経験ですが、『働くということ』を自分なりにかみ砕いてみました。
【後編】です。

5.
働く行為の意義。
働きはじめた頃は、なんでこんなことしないといけないんだろうってあらゆることで思っていた。
誰のために自分が行動するのか、それは本当にやる意味があることなのか、考えるたびに仕事が無意味な気がした。

いつのまにかそういうことを考えなくなったのは、自分の行為が誰かの役に立っている場面が増えたからだろうか。

働く意味というのは、社会課題のために!なんてすごく大きくてぼんやりしたことでなくてもいいみたいだってわかった。(ぼんやりしたことは意識的にクリアにしようとしない限りずっとぼんやりしたままで何にもならない、ということも感じる。)

一緒に仕事をする人から求められたことを返せたという経験ひとつひとつが、地に足のついた達成感が、当たり前に働き続けるには必要なんだなって思った。
それから、そもそもこういったレベル感で仕事について考えられる状況でいられるのは、会社や業種といった大枠をよく考えて就職を決めた過去の判断が正解だったなと強く思う。
今やってる仕事は、広い意味で社会の中での役割がもともとやりたかったこととずれていないから、こうやって働き方についてよく考えらるんだろうな。


6.
「自分なりの仕事」
ずっと"つくること"をやってきたので、個性やオリジナリティは出せば出すほどいいって価値観が染み付いていた。だから仕事をはじめてすぐは、求められたことをそのまま返すという状況にすら違和感を抱いていた。与えられた仕事に自分なりの発想込みで返したいという思いと、そもそも頼まれた最低限すら返せない力のなさと、気持ちと現実が全然噛み合わなかった。噛み合ってないことを自覚する余裕すらなくて、何かを頑張りたい思いがずっと空まわりしてた。

スキル的な部分が成長し始めたのは、「自分なりの」という意識を棄てるところがはじまりだったかも。意志を棄てて、質の善し悪しを考えず、ゴールを見据えることもできず、ただやる。作業要員にしかなれない自分を愚かだなぁと俯瞰しながら、現実を受け入れてた。
そんな中でもできるだけ作業だけにならないように、まず考えてから行動に移すように、一歩ずつ、一歩ずつ、一生懸命に取り組もうとしてた。

その甲斐あってか、3年目も後半に差しかかった最近は「考えること」に対する評価をたまにもらえるようになった。素直に嬉しい。何か結果を出したわけではないけれど、自分の特性としての向き不向きを評価してもらってる気がする。
スタート時点のだめだめ度からの伸び率が高いタイプかもと自己分析してみたり。それからこの評価が嬉しく思えたことで、アタマを使うことを仕事としたいという欲があることを自覚した。ややこしいことや答えの出しにくいことをうんうん考えるのが好きみたい。

そういえば今はあまり「自分なりの」働き方という視点はないなぁ。「自分なりの」を考えることは、他者と自分を比較してる状態なのかもしれない。きっとよそ見をしてて目の前のことに集中できてない状態なんだろうな。


7.
気持ちに左右されないように行動する。
いろんな心持ちで仕事に取り組んでみて、働く行為の中に「やる気」という軸を持ち込むべきじゃないなって思った。もちろん人間なので気持ちの浮き沈みはあるのだけど…気持ちによってパフォーマンス=行動が変わるようにしてしまうと「そもそも何もしたくないのだが!」という怠惰なゴールにしか向かわなくて。
だって目の前のやるべきことが「楽しいかどうか」を考えるのって難しい。辛くないことをやればいい、楽なやり方でやればいい、自分にかけるストレスを減らす方法を考えればいい、やれそうって思った時に動けば終わるくらいの仕事量になればいい。
ストレスなくやれるくらいのタスクにまで分解して、ただやる。最近は「分解力」が仕事の質に繋がるような考え方をしているかもしれないなぁ。

それから仕事ができる人というのは、自分だけじゃなくて他の人のストレスについても配慮できるひとかもなって思った。
「ありがとう」「すみません」「助かったよ」そういう一言を添えられるってとても大事。
そうやってむだな摩擦を起こさず、ちょっとの配慮を持ち寄ってお仕事を頼み合える関係性がいいなって思う。ちょっとの配慮をする心掛けをいつも持てる自分でいたいなって思う。


8.
関係性に摩擦を起こさない配慮のひとつに「謝罪」がある。社会人になってからやたらと謝ってきた。謝罪の思いがある時も、ない時も、謝罪の言葉を口にした。
というのも、仕事をしている中ではたまに「怒る人」と出会うから。今では、そもそもうまくいってる仕事では感情的になるような状況は起きないんだよなと思うのだけど、やっぱり怒らせてるのが自分だと思うと謝るしか方法がなくて。怒っている人にかけるべき言葉も謝罪くらいしか思い浮かばなくて、何かと謝っていた。

3年ぽっちでも経験を重ねると、謝罪が必ずしもいい方法ではないことがわかってきた。
謝るのは軽々しく取らない方がいい手段で、謝ることでむしろ相手を不安にさせることもある。そもそも謝ることをしても現実には何も起きないのだ。起きるのは自分の心が削られることくらい。謝るくらいなら行動を起こす方が価値があるよなぁって、いまでは冷静に思ってしまう。


9.
仕事を遊ぶ。
これがある意味『働くということ』のゴールなんじゃないかって思っているのだけど、それを腹落ちさせるヒント、片鱗になりそうな要素が少しみえてきた気がする。
それは「社会に実装されていく」こと。空想でなく、自分の行動が何かしらのかたちで現実を動かしているという事実。その影響力が大きくなればなるほど、仕事で遊ぶ感覚になったりするのかなって何となく思う。

影響力には種類があって、広く浅くでも、狭く深くでも、誰かに届いたエネルギー量がやりがいになるのかななんて思ったりしている。

こうして振り返ると、よくも悪くもドライになったのかな。楽に淡々と継続できるように体力の配分を省エネしてるような。

これで全部ってわけではないと思うけど、ざっと『働くということ』についてを振り返ってみた。3年間でいいトライアンドエラーができてると思う。やれる範囲の精一杯を積み重ねて、その中で得られたものがある。

たくさん失敗させてくれてありがとうございます、周りの人たち…頭が上がりません…

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