客観視の距離

慣れや経験でしか解決できないものがあるとするならそれは「客観視」なのだろうと、社会人2年目のわたしは思うのです。
去年の自分がいかに新しい環境に溺れていたか、深呼吸して周りを見渡してみるだけでわかることがどれほどあるか。

これまで、わたしにとって「客観視」という言葉の意味は「誰かの視点に立って考えること」でした。ひとつの事象に対して、解釈がひとつではないという可能性を考えることでした。
だから社会人の大人たちの気持ちがさっぱりわからなくて想像もつかない状況では、まずスタンダードな視点を知ることが必要だと、そう思ったのだって今ならわかります。

でも自分の考えを出すことなく、ひたすら周りの視点を想像するのはやっぱり限界があるようです。だってすべてを想像でまかなうのは、つまりは現実に何も起きていないということだから。
ひとりで想像してもよくわからなくて、現実に変化のない自分をもどかしく感じて、ぼんやりとした理想とのギャップに勝手に疲れていました。何かが怖くて、何かに頑なで、でも動かないこと、変化を起こさないことでいろいろな不安から自分を守っていました。

今のわたしは「客観視」の意味をもう一つ知っています。
それは「少し離れたところから自分を見る」ということ。自分の状況を、自分自身から距離をとって見つめてみるということです。

いつも通りの自分なら自然に出来ていたことが、冷静でなくなるだけでさっぱり分からなくなることがあります。
言葉を変えると、今までの自分が悩み考えて得た能力は、"ちゃんと"身についているものなのです。今の自分が悪いわけじゃないのです。持っているものを発揮できない状態である、それがよくないのだと思うのです。

わたしの状態をどうつくるか?
それだけでいいのかもしれない。
わたしの価値観や思考や趣味や話し方まで全て、それ自体に良し悪しがあるものではないのだろうと。
自分は自分だから。
自分の持ってるものをどう使っていくか。足りない部分は何で、それは誰なら補えるのか。そうやって次に必要なものを洗い出して、自分がどう動くかを導いていけばいいんだなって今は思います。

ーこれはちょうど1年前の気づき。うまくまとめられずに下書きに残っていたものを見直してみたものです。

「とりあえず3年間」の言葉にもやもやを抱えながら、社会人3年目の冬になりました。
苦労から得た学びや考え方がここに蓄積されていくのは面白いです。

たくさん大変な思いをしながら、知らなかった気持ちを知って、わたしはまた「客観視」を豊かにできるようになっています。
迷い苦労した経験を、関わる人みんなに「やさしさ」として還していきたいなと思います。

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