人と人、気持ちの受けとめ合い

なんだか気分が晴れなくて、思いつく対処をいろいろ試してみた。気持ちの波がある時に、なるべく自分の機嫌を取る方法。
たっぷり寝て疲れをとって、好きな漫画や動画にも集中して、気の許せる人とも出掛けた。
でもまだ、どこかもやっとする…

自分のこころを探っていたら、ふと
「わたしももっと自分の気持ちを話したいのに!」
って思ったんです。
何かが特別に辛いわけではないけれど、ため息をつくみたいに空気の入れ替えとして。気持ちの整理をしてみよう。



どことなく、誰かに甘えたいような気がしている。こんなこと今まで全く思ったことないのだけれど、わたしがもう一人いて、たわいのない話を聞いてくれたらなって気持ち。

誰かの安らぎや癒しになれることを、嬉しいと思う。癒された、元気が出た、という言葉を貰うと素直によかったなって思う。
話を聴いてもらうことで救われることがあるって知ってるから、誰の価値観も否定したくないし、できるだけその人のそのままを受け止める役になれたらなって思う。
これまで、別に無理してその役にまわってたわけじゃない。つまんないなと思ったら話題を変えてきたし、わたし自身も言いたいことは言ってたはず。

いつのまにか最近のわたしは、相手の気持ちを想像して受け止めて、そればっかりになっていたのだろうか。
素直に感じたことを、ただ思ったまま口に出す。あなたの言いたいことはわかるけどって、わたしが見てる少し違う視点も共有する。そういうちょっとした「わたしの意見」を表に出せずに内に積もらせていくと、想像よりもこころにずっしりきているのかも。
とりあえず、まだ言えていない本心(どんな些細なことでも)を自覚してみようか。

社会人になってからわかったことがある。
すこやかなこころでいるには、自分の感情を自覚したり、定期的に思ったことを吐き出したりすることが必要なんだってこと。
愚痴ばかり言っている人たちをあまり良くは思わなかったけれど、今はそれも健康的な行為なんだな、足りないと元気がなくなるものなんだな、と理解できる。


コミュニケーションを円滑に進められる、社会性を持って人の輪にいられる、なるべく自分をそのままに他者と意見交換ができる…
ワークショップやコミュニケーションについて考えると、こういった「違いを持った他者と対話できるちから」が大事だって、人として育てるべきちからなんだって、いつのまにか知ってた。リサーチで得た知識でもあるし、どこかで身につけたある種の"正解"的な意見でもある。
でも今、実感として、なんでそれが重要なのかの理由がひとつ見えたように思う。

人は誰しも、気持ちを吐露する瞬間が必要なんだ。そして、吐き出す役と受け止める役は、人によって担当があるわけじゃない。誰かに聴いて欲しい時もあれば、誰かの気持ちを受け止める時もある。感情の波は人それぞれ違うから、折れそうなときに支え合って受け止めあって、すこやかなこころは守られるのだ。
そういった気持ちの"宛先"がないと、誰にも支えてもらえないと、こころなんて簡単につぶれてしまうものなんじゃないかな。
一緒だから/違うから、といって人を仕分けていては繋がりは生まれない。違いがあっても繋がりあえるように、支え合えるコミュニティをつくれるように「言葉」があるんだな。



「言葉」とは、人類がすこやかなこころで生きていくために互いを支え合うコミュニケーションのツール。

気持ちを整理していたら、頭の片隅でぐるぐるしてたことが少しだけかたちになりました。
今日のわたしが思う、ひとつのこたえ。

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