“問い”の質が人を育てる

「仕事って結局、人間関係だよね」
人からもよく聞くし、自分でも強く共感するこの言葉。
大人になると人間性なんてそうそう変わらないだろうから、そうなるとあとは「関係性」をどうつくっていくかが仕事のやり易さを左右するだろう。

与えられた仕事がうまくいかない時、それはコミュニケーションがうまくいっていないということではないかと思う。個人のスキル不足の問題もあるかもしれないが、それは即時的に改善できないから問題になるのであって、スキルをカバーし合う意味でも仕事仲間とのコミュニケーションがキーになる気がする。
わたしはまだ2年目の新米だから、会社では先輩からのフォローを必要とする立場にある。自分よりも経験のある人が仕事を振ってくれることで、やっと自分のすべきことが生まれる状況。

その状況での「仕事の振り方」というのが、つまりは「問いの出し方」と言えるのではないか?というのが今回記す気づきである。

仕事には、淡々とこなす作業的な仕事と、アタマを使って答えを出す思考的な仕事があると思う(職種によってその割合は変わるだろうけど)。

人を育てる視点から「仕事の振り方」を考えてみる。
新人のうちは作業的な仕事が多いかもしれないが、会社を会社として続けていく以上、いずれは思考的な仕事ができるような人を育てなければならない。
経験ある立場の人が新人へ思考的な仕事を頼む時、つまりその人の思考力を育てる時、それって
「〇〇について考えてみて、答えを聞かせてくれないか?」
というような投げかけをしてるってことじゃないだろうか。
本来なら自分でもできる仕事を代わりにやってもらう。君のアタマを借りて自分の代わりに答えを出してもらう。なにについて考えるか?という「問い」を投げかける。「仕事を振る」ってそういうことなんじゃないかな。

それって、ワークショップのファシリテーションと似てる。

その人が自分で考えて進めるように、向かう方角を示して、時には道標を立てる。でもどのルートで進むかはその人次第。どんなに蛇行しても迷いそうでも、あくまで見守ることに徹する。
仕事の場ではそんなに自由なルートは選べないけれど、見守りの度合いやスピード感を除けばおおむね同じことをやってるように思う。

それから、「問い」の質について。
振られた仕事がうまく考えられない時は、考える材料が揃ってない時だ!というのが最近のわたしの持論で。考えるのにちょうどいい「問い」になっていないと、うまく前に進めない。
反対に、上手な「問い」は思考力を引き出す。持っている力の最大限を、なるべく自然なかたちで発揮させる。
"ちょうどいい"の加減が人それぞれ違うから難しいんだろうな。人それぞれの"ちょうどいい"に当たる率が上がるから、豊かな視点での投げかけだと良いんだろうな。
問いを投げかける側と、受ける側。立場を行き来した想像にゆらぐ。



「仕事って結局、人間関係だよね」
その関係性が、おだやかで、やわらかで、なめからに続くように。伝言ゲーム的で一方通行な「仕事を振る」という行為が、安心の中で行われるように…良質な「問い」に出会いたいものですね。

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