【うつ病になった大学生】 言葉の余白を埋める音楽と詩を書くわたしのうつ
今日は歌った。明日も歌う。
わたしは青春の全てを歌に注いできたけれど、もしかしたら明日が学生生活最後のステージになるかもしれない。
本当は、まだまだチャンスはあるのだけれど、正直今回ステージに乗ることを決めた後、後悔をした。だから、次はもう無理かもしれないと思っている。
歌うことは楽しい。
歌うことはわたしを自由にしてくれる。
けれど同時に、歌うことはとても体力のいることなのだ。
全身でめいっぱい詩の世界を生きるには、今のわたしはあまりに頼りない存在なのだ。
そもそも、歌詞を覚えるということがとてつもなく困難で、頭が追いついてこない。
最近は、こんな拙い文章でさえ書くことがしんどくなってきている。
それでも文章を書いていないと死んでしまいそうだから、必死に詩を書いている。
詩のような、抽象的な文章しか書けないのだ。
エッセイのような解像度の高い文章を書くだけの頭はない。
だけど、詩は感性だけでも書くことができるから、今のわたしにもなんとか言葉を紡ぐことができている。
今日の練習の中で感じた。
歌は、詩の余白を埋めるものと、詩の言葉そのものを語るものがあるのではないかということを。
わたしは、歌いながら詩を、言葉を語っている。その詩から溢れている感情を、必死に言葉と音にして表現しているような感覚だ。
しかし音楽の力はそれだけでなく、詩になるときに削ぎ落とされた情景や説明を音階とリズムで補っているような気がした。
面白い。
それから、絵本は詩なのだということにも気がついた。
削ぎ落とされて抽象化された世界は、余白だらけで、如何様にも解釈する自由が与えられている。
そこに正解も不正解もなくて、一人一人違う感性によって受け取られた言葉が共存している音楽が合唱なのだと思うと、わたしはますます合唱というものの奥深さに魅了されてしまう。
そう考えると、J-POPはその余白が少ないような気がする。
わたしは言葉の余白が好きなのだろう。
その余白を作った作者や作曲者の意図を想像しながら、自分の解釈と共存させていく行為が好きなのだ。
久しぶりに、自分の好きなものに対する、「好きだ」という気持ちを満足いく形で言語化することができた。
嬉しい。とても嬉しい。
わたしという人間の解像度が、また少し上がったということだから。
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