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【読書記録】川上弘美さんの『私の好きな季語』を読んで考えたこと

川上弘美さんの『私の好きな季語』を読みました。

このところ、川上弘美さんの本を読むペースが上がっています。
なんだろうな、疲れてるのかな。
以前も書きましたが、私にとって川上弘美作品はメンタルケア本なので。

ただ、この本は季語についてのエッセイ本です。
川上弘美さんが好きな季語と、その季語を使った句があげられ、それらにまつわることがらのエッセイが書かれています。

私は俳句に全く詳しくないし、もちろん自分で作ったりもしない。
その程度の人間がこの本を読んだらどうなるか、まあそういう記録として、この記事を書かせていただきます。

世の中には知らないことが多い

この本を読んでまず感じたのは、世の中には知らないことが本当に多いな、ということですね。

季語は歳時記で調べられる!

俳句のとっつきにくさのまず第一が、個人的に「季語ってわからないし」でした。
この本で、川上さんが「歳時記で調べる」というのを書かれていて、いやもう素人はそこからなんだよなあ~、というのをしみじみ感じましたよ。
え? そんなのググればわかるでしょ、って?
いや、だから、季語ってどういう仕組みで存在してるのか、という部分がわかってないと、検索する発想が出てこない。雰囲気でなんとなく成立しているのかと思ってたんだってば!

季語は増殖する!

俳句ってなんとなく、明治の頃までに成立したもの……みたいな印象を持っていたので、季語ってそのころまでにできたもの、といううすぼんやりとしたイメージだったんですよね。(と書いて、原爆忌なんて季語があったことも思い出す)

だから、派生季語という単語を本書で見て、ひょっとして季語って俳人がどんどん作っていくこともOK? と、俳句の進歩性みたいなのを感じ取りました。

俳句って、もう先入観ですけど、文学界の重鎮みたいな人がつくっているイメージというか、そうではないって頭ではわかっているけど、短歌より難解という感じがするので。(そう考えると、短歌のハードルを一気に下げた俵万智さんの存在ってでかい……)

季語の中に知らないものがある!

この本で取り上げられている季語の中に、当然自分の知らないものが出てきます。
すかんぽってなに?
ががんぼってなに?
……調べましたけどね。

漢字で書かれるとなんとなくわかりそうなものも、ひらがなを並べられたらわからない! ってありますよね。
でも、わかる人にはわかるし、ひらがなだからしっくりくるところがある。

そういう、なんだろう、自分の知らないところで、言語世界がどんどん豊かになっているのに、そのことに全然気づかないままずっと生きてきてる、というこの様よ。
いや、言語世界に限らず、あらゆる分野でそういうことって進行しているんだと思いますよ。音楽とか、美術とか、映像とか。そのジャンルの中で培われた歴史や象徴的なものを知らなかったら、表現内容の意味が読み取れないとかあるし。

世の中には知らないことがたくさんあるし、だからもっと謙虚に無知な自分と向き合おう。それをすごく感じました。

俳句ってやっぱり禅思考

枯枝、枯木など枯○○という季語が、俳句にはたくさんあるけれど、マイナスイメージの季語ではない。そこを読んでいて、ああそうか、と思いましたよね。

青々とした時には、その勢いを。そして、茶色く枯れた時には、その寂寞とした静けさを。それぞれの持ち味を、差別せずにただありのままに良しとする。それが季語の精神(後略)

川上弘美『私の好きな季語』

俳句は自然を詠むものです。
自然にはどうあってもかなわない、というのが、災害大国の前提。
あるがままをあるがままとして受け止める。

実は読みながら、自然の話は川上さんの子どもの頃の話が多いなあ、とは思っていたんですね。自然って、やっぱり原風景なんかな、と。
まあ、環境破壊で自然はどんどん減っていくし、地球沸騰化で季語が現実に合わなくなっていくんじゃないか、という怖さも、素人ながらあるし。

どんどん経済発展を進めて、科学の力で温暖化に対抗しようとする反面、自然に向き合い、自然と共に生き、余計な欲を持たないというのも人間の生き方。

俳句って、自然を詠むからこそ、そこに思想が存在するんだったよなあ……と、あらためて思い知りました。

接頭語に中に感じるアジア文化圏

これはもう俳句からちょっと逸脱した話かもしれませんが。

小夜時雨(=夜の時雨)という季語がありますが、「小夜」の「小」は言葉の調子を整えるための接頭語である、というくだりを読んで、「じゃあ、小夜の小は〈xiao〉では?」と喜んでしまいました。

はい。中国語的な使い方、というやつですね。
え? こんなところに中国語? 
音読み熟語を大量に輸入しているであろうことはわかってるけど、リズムを整える感覚も輸入してるのかあ。やっぱり中華文化圏ですなあ。
近年は逆輸入もされてるし(「可愛い」とか、簡体字でそのままだし)。
近隣国だもん、影響し合って当たり前だし、文化的にいいところは学んだ方がいいよねえ。

そもそも日本文学の発端には、漢詩漢文を頂点とする意識があったんだわ。というのを『光る君へ』のを観ながら学びました。
漢詩の型が意識の奥底に沁みついているのなら、そりゃリズムは重要よ。都々逸だよ。三々七拍子だよ(意味不明)。

おわりに

正直、この本を読む前は「ちょっと息抜き的に読もう」と思ってたのに、めっちゃいろいろ考えさせられる読書となりました。

季語+俳句+エッセイという構成も興味深かったし。でも、これを素人がまねてもイタくなるだけだから、「私もこういうのを書いてみたい!」と思っても、熟慮するように(という自戒)。

この年になってやっと思うんですが、見聞きしたことや読書って、その時はさほどたいしたことなくても、いろいろ積み重なることによって、それらの記憶が複合的に絡み合うことで立体的になり、だから新しい体験(読書)をしたときに、書かれている内容の奥底が垣間見えたりするんですね。

だから若い方には、タイパとか効果を読んで行動するのもいいけど、まあムダになっても体験してみようというスタンスでいろいろやってみることもいいですよ? と、余計なお世話を焼きたい。
ま、余計なお世話ですけどね。

ここまでご一読いただきありがとうございました。
明日がよき日でありますように。

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