原稿枚数
みなさんは、本の帯について、何か思うところがあったりするだろうか。
友人数人に訊ねたところ、気にしたことすらない、と言われてしまった。まあ、それが普通かもしれない。
「〇〇って、本の帯についてだけは、辛口だよね」と友人の一人がいじってくる。そうなのだ。基本、本にまつわるあれこれについて、温かい眼差しを向けることが多いのだが、こと本の帯の話になると、ネガティブさが増してしまう。
私は、帯文をきっかけに本を買うことはほとんどなく、むしろそれを理由に本を買わないことを決める。特に注目するのは、推薦者。「この人に推薦文を書かせるのか……」と落胆して、手に取るのをやめた本は少なくない。
こう書くと、「そんなんで読むのをやめるのは、軽率すぎる」とツッコミが入りそうだが、何も永遠に読まないと言っているわけではない。帯自体が外されたり、帯文のことなど忘れてしまったころには、何事もなかったように、一度手に取るのをやめた本を楽しんで読んでいたりする。それぐらい芯のないこだわりだと思ってもらっていい。
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帯に見られる文言には、様々な種類があるが、「これはつまり何を伝えたいの?」と首を傾げてしまうものも少なくない。その一つが、「原稿総数〇〇枚」の類だ。
読者に量の多さを売り出したいのだろうか。スナック菓子でいう、「〇〇g増量!」と同じ感覚だろうか。ページ数が多い、分厚ければ分厚いほどいい、という読者は果たしてどれくらいいるのだろう。京極夏彦の分厚い文庫本が定期的に話題になるように、本の厚さが人を惹きつけるのも分かるが、何もすべての作品にその分厚さを求めているわけではない。
引用したのは、作家・黒川博行のエッセイ集に収録された、東野圭吾と黒川による対談の一場面である。
「大長編競争」……出版界でそんな競争が行われていたとは。このようなエピソードを知ることができるのが対談の魅力であったりする。
引用文中で東野圭吾が、帯上で原稿枚数の多さを強調する行為を、「読者にとってまったく関係のない争い」と言い切っているのに触れて、「ああ、自分の感覚は間違っていなかったんだ」と一人納得した。そうそう。やはり読者は原稿枚数を示されても、それによって「そうなのか! これは買うっきゃない!」となることはない。
また一つ、私の帯文批判のネタが増えてしまった。
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