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原稿枚数

 みなさんは、本の帯について、何か思うところがあったりするだろうか。
 友人数人に訊ねたところ、気にしたことすらない、と言われてしまった。まあ、それが普通かもしれない。
 「〇〇って、本の帯についてだけは、辛口だよね」と友人の一人がいじってくる。そうなのだ。基本、本にまつわるあれこれについて、温かい眼差しを向けることが多いのだが、こと本の帯の話になると、ネガティブさが増してしまう。

 私は、帯文をきっかけに本を買うことはほとんどなく、むしろそれを理由に本を買わないことを決める。特に注目するのは、推薦者。「この人に推薦文を書かせるのか……」と落胆して、手に取るのをやめた本は少なくない。
 こう書くと、「そんなんで読むのをやめるのは、軽率すぎる」とツッコミが入りそうだが、何も永遠に読まないと言っているわけではない。帯自体が外されたり、帯文のことなど忘れてしまったころには、何事もなかったように、一度手に取るのをやめた本を楽しんで読んでいたりする。それぐらい芯のないこだわりだと思ってもらっていい。

 帯に見られる文言には、様々な種類があるが、「これはつまり何を伝えたいの?」と首を傾げてしまうものも少なくない。その一つが、「原稿総数〇〇枚」の類だ。
 読者に量の多さを売り出したいのだろうか。スナック菓子でいう、「〇〇g増量!」と同じ感覚だろうか。ページ数が多い、分厚ければ分厚いほどいい、という読者は果たしてどれくらいいるのだろう。京極夏彦の分厚い文庫本が定期的に話題になるように、本の厚さが人を惹きつけるのも分かるが、何もすべての作品にその分厚さを求めているわけではない。

「東野 我々くらいってディテールや取材にこだわりがあった世代なんですね。調べることは大事なんですけど、当時はそれをそのまま書きすぎていた側面もあります。その点、黒川さんはすごく取材してるんだけど、書きすぎない。ポイントをきちんと押さえる書き方なんです。当時よくあった変な競争の一つに大長編競争というのがあって。
 黒川 ありました(笑)。
 東野 帯に原稿枚数を書いて、”怒濤の千五百枚!”とか”二千枚”とか読者にとってまったく関係のない争いで。黒川さんはそんなアホみたいな戦いにはいっさい加わらなかった。」
黒川博行『そらそうや』中央公論新社、P228)

 引用したのは、作家・黒川博行のエッセイ集に収録された、東野圭吾と黒川による対談の一場面である。
 「大長編競争」……出版界でそんな競争が行われていたとは。このようなエピソードを知ることができるのが対談の魅力であったりする。
 引用文中で東野圭吾が、帯上で原稿枚数の多さを強調する行為を、「読者にとってまったく関係のない争い」と言い切っているのに触れて、「ああ、自分の感覚は間違っていなかったんだ」と一人納得した。そうそう。やはり読者は原稿枚数を示されても、それによって「そうなのか! これは買うっきゃない!」となることはない。

 また一つ、私の帯文批判のネタが増えてしまった。




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