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空想

 最近、歌人・若山牧水の『新編 みなかみ紀行』(岩波文庫)を入手して読んだ。
 彼のまとまった作品を通して読むのは、今回が初めてである。
 本書にはクスッと笑わせてもらった。この「クスッと」養分は、簡単に得られるようで実際は得難い。

 強く勧めたいのは、「空想と願望」と題された文章。一部引用してみる。

「誰一人知人に会はないで
 ふところの心配なしに、
 東京中の街から街を歩き、
 うまいといふものを飲み、且つ食つて廻り度い。」
若山牧水著、池内紀編『新編 みなかみ紀行』岩波書店、P153)

 「空想と願望」では、上記の調子で、たんたんと若山牧水の願望が綴られていく。
 私は顔が広くないので、街中で知人に会う心配をすることはないが、それ以外の願望については頷けた。
 私が住む京都には面白いスポットが沢山あるのだが、それを味わい尽くそうと思うと、悲しいかな金が要る。「ふところの心配」がもしなくなれば、四六時中遊び歩き、家で静かに読書に耽ることもなくなるかもしれない。

「咲き、散り、
 咲き、散る
 とりどりの花のすがたを、
 まばたきもせずに見てゐたい。
 萌えては枯れ、
 枯れては落つる、
 落葉樹の葉のすがたをも、
 また。」
若山牧水著、池内紀編『新編 みなかみ紀行』岩波書店、P154)

 もう一箇所、引用してみた。
 洒落ている。洒落すぎている。牧水はこの願望を、一つ前に紹介した願望と同じトーンで綴っているのだろうか。私は二つの願望のギャップに、心をくすぐられる思いがした。
 私にもいくつか、「ここに座って、季節の移り変わりを見ていたい」と思える場所がある。その一つは高瀬川。もちろん、そんなことは実行不可能なので、せめて近くを通るたびに、同じ位置から高瀬川の写真を撮るようにしている。そうすれば、スマホの画面上ではあるが、季節によって変化する高瀬川を楽しめる。

 人は茫漠たる欲望を抱えて生きているものだが、いざ具体的に望むことを列挙せよと言われると、言葉に詰まってしまうものだ。
 私自身も友人から問われて、なかなか言葉が出てこず、最終的には「〇〇食べたい」「××食いたい」とひたすら食べたいものを列挙する始末だった。
 実際のところ願望というのは、それぐらい日常的な程度におさまるものなのかもしれない。



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