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偏重

 最近手に取った本に、次のような記述があった。

「入試における偏差値至上主義には、大学入学をゴールとみなし、その時点での入試偏差値(の元となる入試問題正解率)をそのまま「その人の知的レベル」とみなす傾向が見受けられるが、その人の能力すべてを確定的な形で示すわけがない。」
中村隆文『なぜあの人と分かり合えないのか』講談社選書メチエ、P54)

 偏差値。この漢字三文字について考えるのは、数年ぶりである。周りに受験生でもいない限り、この数値が日常に現れることはない。
 熱く語るほどこの数値に思い入れはないが、一つ関連する経験談を記しておきたい。

 2010年代後半。私はSNSで参加者を募って、熱心に読書会や勉強会を開いていた。
 会のルールには「自分の所属先を明かさない」があり、事前に参加希望者には、これを守るのが参加条件であることをきちんと説明した。
 ある東京の大学生から、参加したい旨のメッセージが届いたときのこと。トラブルが起きる。
 オンライン通話にて、冒頭で上記のルールを説明し、その後数十分間雑談に興じたあと、そろそろ通話を終えようという段になって、「一ついいですか」とくる。「何でしょう」と訊ねると、「やっぱり所属の大学、名乗ってもいいですかね」ときた。
 頭の中に大量の「?」が浮かび、「いえ、説明したルール通りでお願いします」と言うと、「どうして言っちゃダメなんですか?」と食ってかかってきた。
 ルールに異論があるなら参加するなよ……と内心では思いつつ、「所属先を言うと、バイアスや偏見が生まれやすい」「読書会や勉強会には不要な情報」といった説明をすると、「嫉妬する人がいるってことですか」と言葉を投げつけてきた。
 この大学生の所属先は名のある大学だったが、上記の発言一つとっても、「〇〇大学の学生ってこの程度なのか」と参加者に思われてお終いな気がする。会の運営のことを考えて、参加希望を丁重にお断りすることになった。
 今ではその大学生(当時)と、一切交流がない。

「大学にはそれぞれ学術研究のスペシャリストが研究者として所属しているわけで、そこに明らかな優劣差をつけることなどできはしない。もし違いがあるとすれば、それぞれの大学にはそれぞれ得意分野の異なるスペシャリストがいるぐらいである。」
中村隆文『なぜあの人と分かり合えないのか』講談社選書メチエ、P54)

 私は「偏差値」という数値を全否定しようとは思わないが、あくまで「一つの指標」にとどめるべきだとは思う。それが生涯にわたって、ある人の判断軸の中心に居座り続けるのであれば、「偏差値」の弊害ここにあり、と言わざるをえない。
 私が幸運だったのは、学部時代から色んな大学の研究者及び学生と交流する機会がもてたことで、「どの大学にも面白い人がいる」と気づけたことだ。そのことに気づかないまま大学を卒業していたら……と考えると、今でも恐ろしい。



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