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失読症

 食べる、と、読む。この二つは、自身の幸福感を構成する、二大要素である。前者については、そもそも身体機能を維持する上で必要不可欠であることを考えると、「読む」という営みが持っている特殊性が際立つ。つまり、人は本を読まなくても生きていくことができるわけだ。
 とはいえ、「読む」という営みが失われた日々を想像するのは難しく、大きく見れば身体機能の維持に貢献している面も否定できないので、私自身が「読む」ことなしに正常な生活を送れるかは謎である。

 どういう訳で、長々と「読む」について綴ってみたかと言えば、個人の意思とは無関係に、生活から「読む」が失われる可能性があることを知ったからである。
 次に引くのは、そのきっかけとなった書籍の中の一節。

「サム・マーティンは、小説を読もうとしたときに問題が深刻であることに気づいた。最初は左眼の上の痛みを片頭痛としてやり過ごしたが、マシュー・グラスの『アルティメイタム  Ultimatum』を開いたところで、事態の全貌が明らかになった。「まるっきり読めないことがわかって恐怖に駆られた」マーティンは回想録のなかでそうふりかえっている。「頁にごちゃごちゃ並ぶ文字は、どちらの目で見ても、私にとって何の意味も持たなかった」突然文字が読めなくなった原因は脳内出血であり、その事実が判明したのは、ベルファストにあるロイヤル・ヴィクトリア病院の脳卒中病棟にたどり着いてからだ。」
片桐晶訳『読めない人が「読む」世界』原書房、P162)

 内容が内容なだけに、一気に読んだ。繰り返し読んだ。
 ある日突然、本が読めなくなる。そんな現実があることを、今まさに「読む」ことを通して知る。衝撃の強さもあって、なかなか次のページへ読み進めることができなかった。

 後天的に文字を読む能力が失われてしまう症例は、「失読症(アレクシア)」と呼ばれる。これは神経学的症候群の一種で、「読む」以外の営み(見る、話す)には障害が生じない点を特徴とする。
 著者のマシュー・ルベリーは、この症例の厄介な側面として、患者に読めるふりをさせ続けてしまう点をあげているが、それは文字を読む能力と社会的地位の関係性に要因がある。つまり、ある一定の社会的地位に到達したり、またはそれを維持するには、それ相応の読む能力が要求されるために、能力を失ったと公言することは、自身の立場を不安定にする可能性がある。それを防ぐためには、実際には能力が失われていても、人前では読めているふりをし続けなければならなくなるのだ。

 私自身は、読む能力によって社会的地位を築けているわけではないけれど、定期的に本について投稿する人間として、社会的に認知はされている。そんな私が、ある日突然本を読めなくなったら、素直に現状を報告できるだろうか……できる自信はない。




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