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在野研究一歩前(16)「読書論の系譜(第二回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)②」

 前回に引き続き、澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)の「読書論」について見ていきたい。今回は「第二章」の内容である。

「第二章」(該当ページ:P16~26)↓
「古昔書籍の數に限あるの時代に於ては讀書術の必要未た大なりと謂ふへからす」(P16)
「讀書法の必要ハ印刷器發明以前に於てハ甚た少なかりしを以て完全の進歩をなすを得さりしものなり」(P17)
⇒世に出回っている本の数が限られていた時代には、読書術はあまり必要とはされていなかった。必要とされる時代になったのは、印刷技術の発明以後のことである。

「ベーコン公出つるに至るまて讀書のことを論せしものあるを聞かす、公は書籍を分ちて一閲讀過し得るものと、再三熟讀すへきものとの二種とせり」(P17~18)
⇒「ベーコン」とはフランシス・ベーコン(1561年1月22日 ~ 1626年4月9日)のこと。彼は、イギリスの哲学者で、イングランド近世(ルネサンス期)に活躍した。イギリス経験論の祖と言われる。「知識は力なり」という言葉で有名。本書で澤柳は、ベーコン以前にまともに「読書論」を説いた作家は存在しないと述べる(つまり、ベーコンが初めてまともな「読書論」を説いた)。ベーコンは書籍を、「一度読んだら終りのもの」と「何度も熟読すべきもの」の二つに分けた、とされる。

(ホッブズの言葉)「若し余にして他人の如く多く書を讀みたらんにハ又他人の如く同く無學なりしならん」
➡(著者の解釈)「須く數部の良書を撰て能く熟讀玩味すへし徒に多讀を貪るときハ、其記性を衰耗せしめ其理性を攪亂し一生無智無學に終らんこと眞」(P18)

⇒「ホッブズ」とは、トマス・ホッブズ(1588年4月5日 ~1679年12月4日)のこと。彼は、イングランドの哲学者で、17世紀の近世哲学にあって、機械論的世界観(デカルトなどともに)及び唯物論(スピノザらとともに)を唱える人物として、先駆的思索を展開した哲学者の一人である。一般的には政治哲学者として知られ、著作『リヴァイアサン』が有名。
 ホッブズの読書論を澤柳は解釈し、読書というのはむやみやたらに多くの本を読んでいったらいいわけではなく、きちんと「良書」を選び取り、それを熟読吟味することが大切である。ただ多読するだけでは、無智無学のままだ。

(ホッブズとは反対のことを言うミルトンの言葉)「苟も學者たるものハ凡百の書籍を猟渉せさるへからすとせり」
➡(著者の反対意見)「思ふに氏の説には二個の弱點あるを免れす、第一漫りに多讀するを以て緊要のことヽなしたること、第二特に心意を要すへき書籍と一見讀過し去るへき書籍とを區別することを爲さヽりしこと是なり」(P19)
「読書の法規を顧みす初より多讀を貪るか如きは書ありて益なきも若し讀書の法規に従ひて多讀するときは其利益たる益ゝ大なるへし」(P19~20)

⇒「ミルトン」とはジョン・ミルトン(1608年12月9日 ~1674年11月8日?)のこと。彼はイングランド(イギリス)の詩人。共和派の運動家。代表作『失楽園』はあまりにも有名である。
 澤柳は、ホッブズの「多読反対論」に対する意見としてミルトンの言葉を引用している。ミルトンは「学者」たるものはあらゆる分野に精通していなければならないので、そのためには「凡百の書籍」と向き合わなければならないと主張する。それに対して澤柳は「ミルトンの主張には弱点がある」として批判する。何でもかんでも手に取って多読することには、無駄な部分が多い。多読することを奨励するにしても、そこにはきちんとした「読書術」の修得が必要である。

(ジョン・ロックの主張)「廣く書を讀むものは廣く事理に通するものなりとするものあり、然れとも是れ大なる誤謬なり、讀書は唯智識の資料に供するのみ、資料は是れ智識そのものにあらす、思考力の助を假りて其資料を分類歸納するにあらされは智識は生せさるなり、食物は消化を竢ちて始めて身躰を栄養補益するものなり、讀書も亦此の如し」(P20~21)
「讀書は理解力の涵養及ひ智識の修得に必要欠くへからさるものなりと考ふるものあり、夫れ或は然らん然れとも讀書は時としては反て眞正の智識を得るの障碍となること往々これあり」(P21)

⇒ジョン・ロック(1632年8月29日 ~1704年10月28日)は、イギリスの哲学者。イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』を通して経験論的認識論を体系化した。一般的には政治哲学者として有名であり、『統治二論』の中で展開した社会契約論や抵抗権の主張はアメリカ独立宣言、フランス人権宣言の基礎となった。
 ロックの「読書論」はなかなかに厳しい。ロックは読書を通じて得られた情報は、まだ「知識」とはなりえておらず、それはあくまで「資料」でしかない。そこから自らの思考力を生かして「資料」を分類帰納することによって初めて「知識」は獲得できる。食物を摂取し、身体の中で消化することで、初めて「栄養」を獲得できるのと似ている。
 またロックは「読書」自体を絶対視することにも懐疑的である。

「如何なる書を讀むへきや、如何なる時に讀書すへきや、如何なる方法を以て讀むへきやは、讀書術の三大問題にして今日歐米學士の常に論究する所なり」(P23)
⇒澤柳曰く、読書術の三大問題として「どのような本を読むべきか」「どのようなときに読書するべきか」「どのような方法を用いて読書するか」がある。

「諸學科に渉り諸書に通し適用し得へき一般普通の方法も亦自らなくんはあらす、此讀書法は實に其の一般普通の方法を講究するものなり」(P24~25)
⇒個々人にはそれぞれ自分の専門とする分野があり、その分野に沿った適切な読書法がある。ただ一方で、どんな分野においても普遍的に用いることが可能な「読書法」も存在する。澤柳が本書で展開したい「読書法」は、後者のものである。

「讀書法の目的は實益實効を収むるにあり」(P25)
⇒ここで言う「実益実効」というのは、「成果が出る」ぐらいの意味であろう。要するに、有意義な「読書法」であるといいたいようだ。

「ペイン氏の説に従へは讀書術の大問題は、第一如何なる書籍を讀むへき乎、第二如何なる方法に依りて讀書すへき乎の二問なり」➡これに「如何なる場合に於て讀書すへき乎の一問を加ふるは最も適切緊要なりとす」(P26)
⇒最後の「どのようなときに読書するべきか」が「第三章」で語られる。

以上で、「在野研究一歩前(16)「いつの時代も読書論(第ニ回):澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)②」を終ります。お読み頂きありがとうございました。

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