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青春

 百貨店の長椅子に腰を下ろし、店内で購入したドーナツをちびちび食べていたら、少し離れたところに座っている女性二人の会話が耳に入り込んできた。

「歳食ったねー。はあ……あの頃に戻りたい」「わかるー」

 断片的に聴こえてくる内容からして、彼女らが戻りたい「あの頃」というのは、中学時代のようだ。
 中学時代ね……。頭の中に、黒い制服に身を包んだ10代の私が浮かんでくる。これは、いかん。かき消すように、頭を振る。うーん、一切戻りたいとは思わない。

 女性二人の会話には、「青春」という言葉も飛び交っていた。青春……。我が身を振り返ってみても、それに該当する時期があったのかいささか不明瞭だ。少なくとも、女性二人が熱情を滲ませて語るような「青春」に、私は身を置いたことがないと思う。

 「青春」については、10代の頃から釈然としなかった。自分と同世代の若者を主人公にした、所謂「青春ドラマ」を見ても、描かれる設定・ストーリーはあくまでフィクションとして受容し、共感の余地を見出せなかった。……「青春」とは何なのだろう。

「青春などというものは、それが過ぎ去ってからふりかえると、二度とくりかえしたくないもので、それに讃歌を捧げることができるのは、いまだに青春のなかに生きているだけではないかと思われる。少くとも、私自身の経験にもとづいていえば、青春とは、みっともない、恥じにみちた時期である。それは私の青春が人なみはずれてみじめであったり暗いものであったりしたからではなくて、青春というものが本来、あとになって、「若気のいたりでした」と恥じいるほかないようなものだからであろう。」
小池真理子選『精選女性随筆集 倉橋由美子』文春文庫、P62〜63)

 最近手に取った、作家・倉橋由美子の随筆集に、以上のような文章があった。倉橋の文体もあってか、この読書には痛みを伴う。まるで、口内炎のできた口で食事をするような感覚だ。
 倉橋は、自身の青春がいかようなものであったかは、青春を卒業したあとでなければ分からない、と述べる。この主張、表面上は理解できるものの、どうしても実感が伴わない。私にはこの歳になっても、振り返れる「青春」がないように思える。

「青春あるいは若さに特権的な価値を認め、青春の持続をひたすら求めている人間には、青春から抜けだす可能性は少いといってよい。そういう人間は、いわば大人になることを拒否しているのである。」
小池真理子選『精選女性随筆集 倉橋由美子』文春文庫、P66〜67)

 この文章を一読したとき、ある恐ろしい可能性が頭をもたげた。それは、未だ自分は青春の只中にいる、という可能性である。
 倉橋は別の箇所で、「若いというだけでは、青春を生きていることにはならない」(P61)とも言っている。となると、10代をとうの昔に終えた私も、未だに青春の中を生きている可能性がある。

 懐かしく振り返れる青春がない人生と、未だ青春から抜けだせていない人生。どちらがマシだろうと考えたときに、迷わず「ふつうに後者でしょ」と選んでしまう私は、本当に青春を卒業できていないのかもしれない。



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