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むなしさ

 これだけコンテンツの溢れる世の中に生きていると、簡単に摂取過多になる。私も例外ではない。
 魅力的なコンテンツが多いから、次から次へと頬張ってしまうが、うまく消化するためには、何も摂取しない時間を意識的に作る必要がある。
 私の場合は、河川敷や寺社の境内に足を運び、適当なところに座って、ひたすら周囲の光景を眺める。境内の僧侶の、落ち葉を掃き集める姿をぼーっと観察したり、河川敷で弦楽器の練習をする人の、覚束ない音色に耳を傾けたり。
 眺める、よりも、身をゆだねる、の方が感覚的には近いかもしれない。

 こういう時間を過ごしてみて気づくのは、書籍や映画を摂取しているときとはまた違った意味で、「考え込む」ことが多いという点だ。この「考え込む」には、多分に「思い悩む」が含まれており、パブリックなものに向けられていた眼差しが、一挙にプライベートな問題に注がれる。
 これは決して心地良い体験とは言えない。

「スマホに限らず、私たちの周囲には、情報であり、商品であり、娯楽スポットであり、「間」を生じさせないような仕組みがはりめぐらされています。」「「間」が存在しないよう周到に回避されているために、ある日突然それでも埋めることのできない「間」が現れたとき、私たちの心は戸惑ってしまうことでしょう。どう対処してよいのかわからず、耐えられなくなってしまうでしょう。」
きたやまおさむ『「むなしさ」の味わい方』岩波新書、P3〜4)

 摂取休止期間に生じる、この不快な体験を、明瞭に指摘してくれているのが、精神分析学の専門家で作詞家の、きたやまおさむである。
 きたやまは、人間の一生に存在する「間」に注目し、普段それは大量のコンテンツによって回避されているが、ふとその中に投げ込まれたとき、私たちは行き場のない「むなしさ」に襲われる、と説いている。
 この「むなしさ」にはバリエーションがある。それは、外的な「むなしさ」と内的な「むなしさ」の二つだ。前者は、大切な人の喪失や相手からの裏切りなど、他者が原因となって起こる「むなしさ」。後者は、生き甲斐の喪失や無力感など、自分自身が原因となって起こる「むなしさ」である。

「ため息をつくと幸せが逃げるなどといわれます。でも、私は、ときどきため息をつくぐらいのほうがいいと思っています。ため息というのは、自分ではどうしようもない、仕方がない、救いようがないと感じたときに出るものです。急いで何かをするのでもなく、その場に立ち止まって「ま、いいか」とため息をつく。それは、どっちつかずの「間」に身を置き、自分の心に現れた「むなしさ」の価値を認識する経験でもあると、私は考えます。」
きたやまおさむ『「むなしさ」の味わい方』岩波新書、P124〜125)

 外的・内的にかかわらず、「むなしさ」に襲われる時間というのは息苦しい。書籍や映画、音楽の世界に没頭して、できればそんな時間は回避してしまいたい。
 ただ、あえてその時間を、外部によって急かされないで自分のペースで過ごせる機会であると捉えれば、少しはポジティブに「むなしさ」と向き合えるかもしれない。



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