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漁師町の外れにやってくる「奥ゆかしき」電車(加太・南海電鉄加太線)|終着駅に行ってきました#3

紀伊水道の恵みを受ける岬にある町、加太(かだ)。釣りに島巡り、温泉に海水浴……。観光地として抜群のポテンシャルを持つこの地に、和歌山市からコトコト走ってくるのは、明治時代からの由緒正しき歴史を持つ電車。そんな加太線のことを、地元の人たちに聞いてみると……。〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

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 子どもの頃、南海電車がお気に入りだった。

 父親の実家の徳島に帰省する際、和歌山港行きの特急に乗るのが楽しみだった。車体の緑の濃淡のカラーリングも、長大なエスカレーターを登ってたどり着くなんば駅の櫛形ホーム*も、イカしていた。退屈し始めたタイミングで、ぱっと車窓に広がる海の景色も良かった。

*始発駅や終着駅において、線路が行き止まりになっているためホームが櫛形になっているものをそう呼ぶ。

「この海の向こうにおばあちゃんがいる」

 そう、ぼくにとって、南海電車は、大好きな祖母に会えるうきうきした気分を盛りたててくれる「ハレ」の電車だった。だから、贔屓にしていたのである。

 祖父母が他界してもう随分になる。徳島からも足が遠のき、南海本線の泉佐野以南に乗るのは数十年ぶりのことだった。だが、鳥取ノ荘(とっとりのしょう)駅を越えたところで広がる、波光きらめく内海の景色は、子どもの頃の記憶と寸分も違わず、穏やかできれいだった。

 和歌山市で、同じ南海電鉄の加太線に乗り換えて20数分。紀伊水道の突端にある町、加太が今回の行き先だ。

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 加太の前に、途中下車した和歌山市での話をしよう。

 時分どきだったので、和歌山市駅のあたりで食事をしようと相成ったのだが、駅前にはまるで飲食店が見当たらない。探し歩いているうちに、JRのターミナル、和歌山駅についてしまった。電車で二駅分だから、結構な距離である。

 ようやく入った店で頼んだラーメンは、まったく味がしなかった。空腹だったにもかかわらず、お湯味のスープに浸った麺を完食するには、努力を要した。

 他に客もおらず、暇そうにしていた店主に、和歌山市駅から歩いてきたことを話すと、町に活気がなくなって、客が少なくなったことをひとしきり嘆いた後、「ほんま、南海にも頑張ってもらわんと。市駅(和歌山の人はこう呼んでいるらしい)なんて、すっかりさびれとるわ」と言い出した。

 自分の不味いラーメンを棚に上げてよく言うわ、と思いつつ「でも、なんば駅、今朝も賑わっていましたよ」と切り返すと「なんばも近鉄や阪神の方が盛り上がっとる、南海は落ち目やね」とさらにくさした。かつての贔屓がいいように言われるのを聞いて、少し暗い表情になったのだろうか、店主が、どこに行きますのん、と話題を変えた。

「加太ですか。いいところですわ。海水浴場もあるし、渡し舟もあるし、漁師に交渉すれば新鮮な魚も分けてくれるし」

 でも男二人で何しに行きますのん、という質問にもごもごと返事をしながら、ぼくたちは店を出た。

 * * *

 加太線は明治45年に開通という古い歴史を持つ路線だ。加太にある淡嶋神社などへの参拝客や観光客、そして途中にある重砲連隊への物資の輸送をあてこんでの敷設だった。その目論見はあたり、夏には海水浴客で満員となった列車が動かなくなってしまい、乗客が押して走らせるほどの人気路線となった。昭和17年には現在の新日鉄住金の前身となる住友金属和歌山製鉄所が開所する。貨物の取扱量が飛躍的に増え、加太線の重要性は否応なく高まった。

 全国のローカル線と同じく、昭和30年代に全盛期を迎え、その後、到来したモータリゼーションが大きな契機となって、現在に至るまで乗客数は減り続けている。新線まで作って対応した貨物の取り扱いもなくなった。しかし、沿線の工場群の通勤客を中心に需要は根強い。今回も平日の昼間に乗ったにもかかわらず、車内の座席は全部埋まっていた。

 いろいろあったが、とにかく、加太線は開業当初から今日に至るまで1世紀以上もの間、休むことなく走り続けてきた。ローカルな盲腸線としては、廃止の話が出ていない時点で「優良」と言っていいはずだ。

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 終着の加太駅は町はずれにある。1日の乗降客数は500人弱。開業時に、町に汽車が来ることを良しとしなかった地元住民の反対があり、港や海水浴場まで1㎞ほど歩く必要がある山裾にやむなく作ったらしい。駅舎は開業時以来のもので、洋風の洒落た外観だ。

 下車すると「めでたいでんしゃ」なるロゴと鯛をあしらったマークののぼりがまず目についた。駅に置かれたパンフレットには、「加太線の愛称は『加太さかな線』。ゆったりとした時間が流れるこの沿線を、観光列車として『めでたいでんしゃ』が彩りを添えます」と書かれていた。

 駅員に聞くと、加太の名産・鯛を模した塗装の電車が運行されているのだという。観光路線としての潜在能力を引き出そうという試みで、加太の町中にものぼりが立っていたところを見ると、自治体とも連携を取った企画のようだ。

 ラーメン屋の店主に言われるまでもなく、南海電鉄も自らの状況を改善しようと努力をしている。めでたいでんしゃのデザインは、お世辞にも格好いいとは言えないものだったけれど。

 * * *

 加太の町は、一目で気に入った。

 老婆が、そこかしこに歩いている。カートを支えにゆるゆる歩く彼女たちの間を縫うように、猫がしなやかに体をくねらせて闊歩する。

 古い銭湯の前は、まだ30分ほどある開店までの時間を待つ老婆たちであふれかえる。さながら町の社交場と化した路地をすりぬけると、海へと続く水路が、とろりとした水面を見せる。両脇には小さな家と商店、そして神社がところせましと並ぶ。

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 懐かしいと感じた。かつての祖父母の家のまわりの景色と一緒だったからだ。

 くねくねと曲がる細い路地。校庭から聞こえる子どもたちの歓声。老婆たち。そして、何よりも「水」のある土地特有の空気。ざわついた感覚と、不思議な安心感。人の住めない異世界でありながら我々に恵みをもたらす自然と共存している地ゆえの腹の据わり方が、海辺の町にはある。

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 もし、加太線が町中に入ってきていたら、まさにこの「ゆったりとした時間が流れる」港町の雰囲気は今ほどまでは醸し出ていなかっただろう。よそから来た「客」にとっては、その奥ゆかしさが、ありがたい。

 綺麗に掃除されている数々の細い道はやがて合流し、海へと向かう一本道となる。道なりに歩いて行くと、こぢんまりと好ましい食堂を見つけた。加太の名物、よもぎ餅を載せたうどんを注文する。しょっぱいつゆに、あんこの抑え気味の甘さが、意外なほどよく合う。

 女将は、夫とともに、5年前に大阪から移住した。親族の介護のため幼少時住んでいたこの地に戻ったという。

「人口は1万人から3,000人くらいにまで減ったけど、風景は子どもの頃と変わってへんね。そうそう、おばあちゃんたちな、元気やろ。この町は山の上まで家が建っとるけど、そんなところかて歩いて行き来しはんねんで」

 めでたいでんしゃの話をすると、「お客さんが来はるようにはなったよ。でも、釣りや友が島がブームになった時はもっとすごかったなあ」と微妙なコメントが返ってきた。

 ちなみに加太港からフェリーで渡る友が島は、スタジオジブリの映画『天空の城ラピュタ』の世界観を彷彿させる、と少し前から評判になっている。先ほどの電車にも島へ行くと思しき若い女性が乗っていた。

 ついさっき水揚げしたという鯛のお造りを持ち帰りで頼んだ。今日中に東京に戻るというと、「締めたてやから、帰った頃にちょうど食べごろになってるよ」と氷をたっぷり入れた包みにしてくれた。

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 空気が少し冷えてきたのをきっかけに、銭湯に入った。17時前だったが、女湯からは物音ひとつしない。あれほどいた老婆たちは、もう入浴をすませ夕飯の支度に入っているのだろう。漁師の町だから、夜が早い。さっきの女将もそう言っていた。

 地元の漁師と思しき男性たちの見事な我慢が湯けむりの向こうに見える。脱衣場には常連たちと思しき人々の名前が書かれた洗面用具セットが並んでいる。飲み屋のボトルキープを思わせるセットの一つに彫師と思しき屋号の書かれたものもあった。この街の銭湯には、刺青禁止などという「やわな」ルールは無用だ。

 彼らの会話は浴場に反響し、その内容は判然としないが、心地よいテンポで続いていく。外国の映画を見ているような心持ちで、彼らの我慢を眺めているうちに、のぼせてきた。気づいたら30分も湯に浸かっていた。

 * * *

 初冬の空はすっかり暗くなっていた。観光客相手のお店はすでに店じまいしたようで、あたりには看板の明かりが見当たらない。街道に出るとお好み焼き屋が一軒だけ開いていた。他の選択肢はなさそうだ。

 がらりとドアを開けると、一組の夫婦と、若い男性が座っていた。いずれも地元の住人のようだ。大将と女将が、彼らとトークを繰り広げながら料理を作っている。

 ビールにお好み焼きを注文した。関西らしく、大将が鉄板の上で作ってくれる。山芋がたっぷり入ったそれは、ふっくらとして、おいしい。先ほどのうどんでお腹は膨れていたが、ぺろりと食べられた。「あたり」の店だ。

「いろんなところからお客が来てくれるけどな、大阪の本場よりもうまいって言うてくれるわ。嬉しいことや」

 味をほめると、神妙な顔でそう言う。かと思うと、返す刀で

「もんじゃってあるやんか。あれどうやって食べてええんか分からん」

「和歌山市内にも一軒できたけどな、よう行かんわ」

 女将とあうんの呼吸で、もんじゃをくさした。本音をちらりと見せつつも、本質はするりとかわして笑いに紛らわす、そんな軽妙なしゃべくりが面白い。

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「うちらの息子もな、東京で働いてるねん。で、この前、うちらを東京に招待してくれてな。立派なホテルをとってくれたんや。40何階の部屋や」

 東京から来たと話すと、大将がそんな話を始めた。

「いい息子さんですね」

「それがな、この女将が高所恐怖症でな。部屋に入って息子が『景色ええんやで』ってカーテン開けたらな『こんな高いところで寝られへん』って言い出してん」

「当たり前や。怖いやん」

「それで、ホテルに『1階に部屋変えてくれ』って言うたらな『申し訳ございません、1階はロビーでございます』やて」

「ロビーで毛布にくるまっても良かってんけど『お客様、それはちょっと』って断られてな」

「格好つけんでもええのにな。結局、10何階に部屋を変えてもろたけど、この人、それでも怖い言うて、床に丸まって一晩すごしてん」

「ベッドより低いからなんぼかまし、と思うたんや」

 店のみんなが一斉に笑う。笑いのためなら、孝行息子のちょっといい話だってネタにする。そしてほんの一匙、反骨の皮肉を混ぜる。

「乗ったことないな。ここにいる人はみんな車や」

「せやな。駅離れとるしな」

 予想はしていたものの、やはり、加太線は一言で片付けられてしまった。ぼくが感じた「奥ゆかしさ」は、地元の人たちには、東京のホテルにも通じるお澄まし顏の「使えなさ」でしかないようだ。

 瓶ビールを2本空けたところで、店を辞し、南海電車で関西空港へと向かった。

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 ぼくにとってのハレの存在だったこの電車は、今日会った沿線の人たちにとっては、落ち目で、客を呼ぶ努力こそするものの効果は今ひとつで、日常に関わってこない電車のようだった。

 泉佐野駅で関西空港へ向かう路線に乗り換えようとしたら、いつまで経っても電車が来なかった。事故で遅延しているという。実はこの日は、台風の直撃を受けて橋梁が沈み込み、一部不通になっていた南海本線が、全線を通しての運行を再開した日でもあった。その混乱もあったのだろう。

 羽田行きの最終便に間に合うかどうか心配だったが、怒っても仕方ない。ぼくくらいは応援したろ、と混雑を整理していた駅員に声をかけた。

「線路、随分早くつながりましたね。復旧まで相当の努力があったとお察しします」

「いえ、まだまだです。本当にようやく全通しただけですから」

 ご迷惑をおかけします。本当に、と律儀に頭を下げると、再びマイクを持って、不満げな乗客たちに状況を説明し始めた彼を見て、今日初めて標準語を耳にしたことに気がついた。

 夜更けに帰り着いた東京で、手早くしょうゆに漬けた鯛のお造りをご飯に載せ、熱いお茶と山葵で、鯛茶漬けの夜食と洒落込んだ。きゅっと引き締まった身は、昼に聞いた関西弁のように小気味いい歯ごたえで、噛むほどに滋味が溢れ出てきた。

 地域に根ざした鉄道を。そんな言葉は履いて捨てるほど耳にする。だが、贔屓の鉄道会社の苦闘ぶりを垣間見るだけで、その実現の困難さを感じる。魔法のような解決策も、あるわけがない。

「お兄さん、東京の言葉やとなんやら賢そうに聞こえるな」

 大将からのそんないじくりを思い出しながら、ぼくは寝床に入った。

文=服部夏生 写真=三原久明

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【単行本発売のお知らせ】
本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年5月18日に天夢人社より刊行されます。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのちに、フリーランスの編集&ライターに。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。他、各紙誌にて「職人」「伝統」「東京」といったテーマで連載等も。趣味は、英才教育(!?)の結果みごと「鉄」となった長男との鈍行列車の旅。
三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2017年11月に取材されたものです。

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