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“うきよ” 福沢諭吉はなぜ『学問のすすめ』で空想をすすめたのか

1月10日は福沢諭吉の誕生日です。
万葉集研究の第一人者である中西進さんによる2001年刊行のロングセラー日本人の忘れものより、福沢諭吉の『学問のすすめ』について書かれたエッセイをお届けします。

日本人の忘れもの
中西進 著(ウェッジ刊)

文明開化は忘れものをさせた張本人なのか

 徳川時代の終わりごろ、医者の緒方おがた洪庵こうあん(1810~63)が適塾を大阪(坂)に開いた。

 いま、一万円札の顔になっている福沢諭吉(1834~1901)も、その塾生の一人である。

 福沢にとって、適塾ですごした青春の数年は、かけがえのない成長の揺り籠だったらしい。福沢が語りおろした『福翁自伝』(慶應義塾大学出版会)という書物によると、たとえばこんな話が見える。

 塾生はしらみだらけのきたない風体をしているから、町では娘たちも逃げていく。それに目をつけたのが牛鍋屋のおやじ。気が弱くて豚を殺せないから塾生たちに殺してくれという。

 塾生たちは「此方こちら流石さすがに生理学者で、動物を殺すに窒息させれば訳はない」。水へつっ込んで殺し、お礼に頭をもらってきて、解剖して脳だの眼だのとよくよく調べて、さんざんいじくった後で、煮て食った、という。

 何やら、今の暴走族を連想してしまうではないか。あるいは江戸の町の白柄組だとか明治初年の熊本の神風連しんぷうれんとか、エネルギーをもてあましている若者たちの集団が浮かんでくる。

 評判のよくない現代の若者たちだって、一万円札の人とそれほど変わらないというのは無茶だが、愚連隊まがいのエネルギーが、すなわち脳だの眼だのの解剖と結びついていることは、すこぶる重大ではないか。

 明治維新とよばれるころ、西洋学はこうした血気の中で迎え入れられ、今までの考えや習慣を一変させて、日本に新しい時代を誕生させた。

 そこで、この一大転換期、日本のコペルニクス的転換の中で、古きよき物はすべて否定され、西洋ふうでなければ人にあらずと考えられた。そのことで日本の伝統はすべて忘れられていった、という考え方が、ごくふつうに信じられている。

 しかしながら、ほんとうに明治維新で日本人はすべてを失ってしまったのだろうか。

 早い話、『福翁自伝』でも「洋学者」が襲われ、「国学者として不忠なり」と思われた者が斬殺されて、福沢自身も暗殺をおそれたという。一方、さっきあげた神風連は敬神をモットーに、新政府に反抗した連中である。

 当時のスローガンは「文明開化」だった。福沢諭吉の書いたものの中にも、西洋諸国を文明といい、東洋は非文明だという考えが見える。この、非文明をぬけ出して文明をもとうという開化が近代日本の合言葉だったが、いっぺんにすべてを捨てて、国のすがたをかえるということが、どれぐらいできるものなのだろう。

 このあたりで、もういっぺん、文明開化の再検証をする必要があるのではないか。

 文明開化のリーダーたちはたくさんいたが、ここではとくに、ものの考え方を中心として、福沢諭吉の考えを、見直してみよう。

『学問のすすめ』は空想もすすめた

 福沢の代表的な著作は、やはり『学問のすすめ』(1872~76刊行)だろう。これは今日でもヒケをとらない程の、大ベストセラーだった。

 いい加減に考えると、学者になることをすすめた書物が、どうしてこうも売れるのかということになって、首をかしげるだろう。

 もちろん福沢は学者になれ、というのではない。そうではなくて、要は「事物の原則」を知りなさい、ということのようだ。

 最近、『福翁百話』および『余話』(1901刊行)をやさしく現代語に訳して再構成された本が出版された(2001年刊、日本経営合理化協会出版局)。とてもよく出来ている本だから、これにもとづいて、私なりにいいかえて説明しよう。福沢はただ習慣にしたがって生活するだけではだめで、そのものの仕組み、仕掛けを考えなさい、と奨励した。

 すべて物の仕組みを考えなければならない。汽船、汽車、電信電話はとうぜんとして、下女が飯を炊き、下男が薪を割るのも、仕組みを考える学問の対象である。

 一方で、反対の学問しない連中をあげているのを見ると、福沢の意図がよくわかる。学問否定諭者は「学者は実地の役に立たない」「素人の方が駆け引きに達者である」「店の番頭は小僧の出世した者に限る」「学校出身の学者は商売の妨げになる」などというやからである。

 こうしたせりふに見える、経験や勘、習慣や常識の尊重が、福沢にとっての「無学」であった。彼はその人たちを「田舎者」ときめつける。

 さらにおもしろいのは、福沢が、万物の「学理」を物理学とよんでいることだ。さっきあげたせりふの中には駆け引き、番頭(の仕事)、商売があるから、これらの仕組みも物理学の対象である。

 そして、物理学をもつことこそ、文明だった。「文明の事業は、徹頭てっとう徹尾てつび、学問上の教理にもとづくものであって、その範囲の外に逸脱することは許されない」というほどである。

 なるほど、西洋文明が、自然科学的な合理性によって作りあげられていることは、当時の人びとにとって、大きな驚きだっただろう。

 あいまいに信じこんでしまうことは無知そのものである。

 反対に事物の成り立ちのぐあいを、きちんと理解していれば、道理は一般的に通じるから、どんな場合にも役立つ。福沢は古い日本をぬけ出すための先兵として、声を大にして合理的な理解をうったえたのである。

 さてしかし、じつは私は『百話』をよむかぎり、福沢をやみくもな西洋合理主義者とだけは、考えられない。

 別に彼はあやしげなもの(霊怪)も、必ずしもとがめるに足りない、といい、文明国に学問が不可欠なのは、宗教が不可欠なのと同じだ、という。

 また、人間社会の進歩はすべて「空」から「実」を生じた結果だという。このことを福沢はすばらしく表現する。「空想は実行の原素なり」と。

 福沢が考えた文明とは、物理的な数字だけで成り立つものではない。心の中の空想も、事実を生むから、文明の今後の改革のためには、むしろ想像を必要とすると彼は考えた。

 とすると、明治の文明開化──日本文明が西洋文明と接触したことによる変化が、自然科学主義の一方的な尊重にあったとは、言えなくなってしまう。

 にもかかわらず、近代日本の文明開化が、自然科学の偏重にあり、その方針が自然科学一辺倒の今日の価値観につながるという見方が根強い。

 だからこの決めつけによって失われてしまったもの──空想とか霊怪とかも尊重する精神を「物理的」の中の一つとして考えることこそが、いま、大きな忘れものとなっていることに、気づかなければならない。

 福沢がすすめた「学問のすすめ」とは、けして「空」をすてたものではなかったのである。

「実学」は浮世の物事を重んじた

「実学」ということばも、福沢を抜きにしては口にすることができない。それほど「実学」は彼を特徴づけるタームであった。

 それでは、福沢が考えた実学とは、どんな学問なのか。福沢によると、実学とは漢学の反対のものだ。漢学は、まわりくどくて実情に当てはまらないので世間の人から嫌われてしまった。世間ではただ学問ときくと、例の空論だろうと思いこんで、学問をする意味を考えようとさえしなくなった。

 それに対して実学は、身につけた後で人生の目的を達成させるものである。

 ただ、そのときにも大事なことがある。後のち役立つといっても、学問は学校のなかですることだし、応用の方法を説くだけのことだから、人間の営みそのものに当たらないかぎりは、「畑水練」になってしまうことだ。畑で泳ぐ練習をしてみても、理屈だけになってしまう。

 ここには福沢のきらった二つのことがらがある。

 一つは学校のなかだけの学問。

 もう一つは応用だけの学問。

 だから、実学は徹底している。そもそも碁や将棋の定石も槍や剣術の形も芸道の根拠とか本義とかというもので、根本は一つだ。それを知ることが学問だという。

 学校のなかだけではダメだ、応用だけではダメだという思想は、芸道の根本を知れということと、ひとしいものだった。それをこそ、実学というのである。

 福沢は同じことを別に「高尚の理は卑近ひきんのところにあり」ということばで表現している。この章の結論は、みごとなまでにすぐれた学問観を示しているので、現代語訳(福沢武氏)をそのまま引用しよう。

近く日常眼前の物について談話を試み、その談笑や遊戯、卑近な問答の中から、最終的に深遠な境地に入らせるための手段は、たいへん多いのである。文明先進の学者は決して浮世の物事を軽々しく見過ごしてはいけないのだ。

 これこそが実学である。学校にとじこもらず、世間ばなれした理論をあてはめることなく、世間の物事そのものの中から最終的な深遠さへと導くことが学問であり、学者の仕事だと福沢は考えた。

 しかし昨今、学問や学者をこのようなものだと認識している人は、どれだけいるだろう。

 すでに久しい以前から、学問は専門の分野が細分化し、それぞれの世界で微に入り細を穿うがった研究が進められてきた。そのために、ごくごく限られた分野の中でさえも、さらに細かい専門がちがえば、もう口出しすら出来ないほどになっている。

 福沢の言う「学校のなか」の最たるものだ。

 ましてや浮世の物事は、見過ごすどころか見ないものと決めている人がすべてだといっていい。

 もしこれを福沢が知ったら何というだろう。「これは、自分が実学という名で改善しようとした、古来の漢学と同じではないか」、福沢のそういう声が聞こえてきそうである。

 このことからいうと、明治の文明開化は、せっかくの開化が、実行されずに、あいかわらずの無用の学をつづけている、ということになる。

 もっとも、最近ではようやく世間に、実学を離れた学問への反省が出はじめた。これではいけない、もっと学問は現実を大切にしよう、と言いだした。

 のみならず、近ごろのノーベル賞クラスの発見が、ごくごく身近なところから起こっていることを、報道はしばしば伝えてくる。それこそ福沢がいう「高尚の理は卑近のところにあり」だ。考えてみれば学問は現実の理解の仕方なのだから、また浮世の物事と密接にむすびついているのだから、当たり前のことなのだが。

 つまりは福沢の学問のすすめも実学も、それ自体が百年後の今日に、忘れものとなってしまった、ということだ。

 何もかも西洋文明を受け入れたことで、古きよき日本が失われたのではない。昔の日本(ないしは東洋全体)が大切にしてきた「空想」を福沢も大切にしたのに、その精神が忘れられたのである。

 また浮世の物事も、漢学はともかく、徳川時代の文化が重んじたものだし、福沢も実学の中で大事にしてきたのに、今やほとんど重んじられなくなっていることを、改めて考え直す必要がある。

文=中西 進

▼齋藤孝さんによる『図解 学問のすすめ』

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。

出典:日本人の忘れもの 3(ウェッジ文庫)

≪目次≫
第1章 生きる
なつかしさ 「なつかしさ」を大切にする必要
みたて 「つもり」になることの大きな効用
るす 現代生活は息苦しくないか
けしょう 顔をいじっているだけでは美しくならない
ふるまい 「ガンバレ日本」で忘れてしまった自然さ
ほね 骨身を惜しむ現代人
はら 電脳主義の現代
「わび」と「さび」 侘しい生活の大事さ

第2章 慈しむ
まるた 内在するものを透視する力を持ちたい
つぼにわ 住まいに「坪庭」のアイデアを生かそう
こもの 小物を大切にする精神
ゆがみ 完全主義はわざとらしい
ことばのわざ 魅力を失った文学
もののかたち 普遍的な物の姿を見通したい
ののくさ 自然からの恩恵を見直したい
「きれる」と「きる」 「切れる」前に「切る」必要がある

第3章 繋がる
みやげ そもそも、みやげ物はテキストだった
うきよ 空想や浮世の大事さを思い返そう
いんが この世の因果を忘れてはいけない
こたつ 暖かさを分有する大事さ
じょうちょ 情緒の創造性を見直そう
「はれ」と「け」 晴れ着をもう一度考えてみよう
なかま 組が班に変わった現代
おとことおんな 日本も昔は男女平等だった
さよなら 何も心がこもらない別れ

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