見出し画像

赤い電車が連れていく、踏切が鳴る街(吉良吉田・名鉄蒲郡線/西尾線)|終着駅に行ってきました#9

かつては観光地への玄関口として名鉄特急もやってきた吉良吉田。三河線が廃線となった今は、その規模を幾分か小さくしながらも、地元の人たちに愛用されています。そんな終着駅のある、穏やかな街の食堂では、今宵も常連たちが贔屓球団の話で盛り上がります。〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

「寺もあれば、自然もある。何を見たいか言ってもらわないと紹介しにくいのよ…」

 吉良吉田駅前の喫茶店の女将は、幾分かの困惑とひと匙の憤慨が混ざった口調でそう言った。

 苦いコーヒーを飲みながら、ぼくは、女将への質問の仕方を少し後悔していた。

「あの、ぼくたち、この町にふらっときたんですけど、なにか見どころとか、ありますかね」

 自分で口にして嫌になるくらい、掴みどころのない問いだ。しかも怪しいし微妙に失礼だ。答えてくれるのは、よほど親切な人か、よほどの暇人くらいだろう。

 しかも「見どころ」なんて言われたら、まっとうな人は名所旧跡を想起する。でも、ミハラさんとの旅は、終着駅の周りをほっつき歩いて、地元の人たちが集う店でお酒を飲む、というものだ。名所旧跡とは、基本的に無縁の旅だ。

 若桜の街のように「ちょっといい感じに一杯飲める店」の存在をいきなり聞くこともできた。だが、まだ日が高かったから飲み屋以外の見どころも知りたかった。いくらお酒は出さないとは言え、女将に同業他社のおすすめを聞くのも、ちょっと気が引けた。

 言い訳だ。初めて訪れた地で初対面の人に、珍妙かつゆるい旅のテーマを伝えつつ、侘び寂びの効いた「見どころ」を聞き出す能力がないだけだ。

 果たして、気立ての良さそうな女将は、マガジンラックから何冊かのパンフレットを持ち出して、観光名所を数え上げ始めた。

 ぼくたちにとってほぼ必要のない情報が積み重なっていく。でも、親切な彼女に罪は1ミクロンもない。話の腰は折りたくない。よし、とことん聞こうじゃないか。腹を決めた。

 ここは愛知県。名古屋の喫茶店文化の影響だろう。コーヒー皿には、柿ピーナツとビスコの小さな袋がサービスで添えられていた。

 * * *

 吉良吉田駅の歴史は少し複雑だ。

 まず、1915年に西尾鉄道が「吉良吉田駅」を今と少し離れた場所に作った。次に28年、三河鉄道が現在の駅とほぼ同じ場所に「三河吉田駅」を作る。両社が現在の名鉄に吸収合併され、ターミナル駅として現在の場所に新しい「三河吉田駅」が作られたのが43年。そして現在の名前の「吉良吉田駅」に落ち着いたのは戦後の60年のことだ。

画像8

 当時、この駅は西尾線、三河線、蒲郡線という3つの路線が集まる逆T字型の線形をした終着駅だった。西三河の名鉄路線網の要だったこの駅の隆盛に、くっきりとした陰りが出たのは、平成になってからのことだ。2004年、三河線部分(吉良吉田―碧南間)が、乗客減を主な理由に廃線となってしまったのだ。

 以来、吉良吉田駅は片翼を失った鳥のようなL字型の線形になり、この駅を通る特急列車もいつしか廃止となってしまった。

 今回、ぼくたちが乗ってきた蒲郡線は、Lの字の「横棒」部分にあたる。

 蒲郡からの道中、車窓には三河湾がずっと見え隠れしていた。松林越しにのぞむ海に漁船が浮かんでいる光景は、外国人に「のどか」という単語を説明するときに、そのまま使えそうな穏やかさをたたえていた。温泉も湧く沿線は、やや下火だが観光地としての需要もある。

 吉良吉田のホームに降り立つと、カンカンと警報音が耳に入ってきた。見ると、ホームの先に伸びる旧三河線の錆びた線路に残された踏切が、遮断機を降ろしていた。廃線部分を留置線にでも使っているのかと振り返ると、ひと仕事終えた風情の運転手がホームで伸びをしている。

画像8

 拍子抜けしていると、やがて遮断機が上がり、待っていた女子高生たちが何食わぬ顔で渡り出した。電車が通らないのに稼働する踏切とは、なんとも不思議だが、地元の人たちにとっては当たり前の存在のようだ。 

 もう一方の「縦棒」部分にあたる西尾線は、人口密集地の名古屋方面に向かう路線で乗客も多い。改札越しにそちらのホームを覗いてみると、新しく両数も多い電車が銀色の車体を輝かせて発車を待っていた。改めて蒲郡線のホームを振り返ると、2両編成のくたびれた様子のワンマン列車が、なおもひと息ついている。

 終着駅はちょっと寂れている方が味わいがある。蒲郡線に肩入れしたくなる風景だった。

 * * *

「この店も、もう40年になるわね。昔は駅前も海水浴や潮干狩りのお客で賑わったのよ。商店が軒を連ねていてね……。今はうちだけになっちゃったけど」

 喫茶店の女将は、話の引き出しが多かった。地元に長年住んでいるからこその情報が随所に織り込まれていて、聞き飽きることがない。

「今の駅は、その頃と比べて変わりました?」

「まあ、そうね。でも乗客は一時期より増えたんじゃないかしら。駅前の自転車置き場や駐車場が整備されたから、随分乗りやすくなったしね。西尾の方にはトヨタ関連の工場も多いから、通勤客がいるのよ。あと、この街には大学や専門学校がないから、電車に乗って名古屋の方に通学する学生さんも結構多いのよね」

「西尾線の方ですね」

「そうそう」

「蒲郡線はどうですか。ぼくたちも今日、蒲郡から乗ってきたんですけど」

「ああ、観光客は減ったけどね、乗客はちゃんといるわよ」

 三河線が廃線になった頃、蒲郡線も負けず劣らず深刻な乗客減に悩んでいた。平成に入ってからの10数年で年間輸送人員が25%、数にして100万人も減少したのだ。そして2008年、名鉄が「一事業者の努力だけでは存続が困難」と発表した。要するに「お手上げ」状態になったのである。

 時を前後して地元有志による存続を求める活動がはじまり、沿線の自治体も財政支援を決めたことで、20年度までの運行継続が決定した。近年の乗客数も、ほぼ横ばいの状態を保っているという。現在、25年度までの継続延長が決定しているものの、決して楽観視できる状況ではない。

画像8

「そうなのよ。だから西尾市と蒲郡市は、第3セクター化しようって提案もしているらしいの。でも名鉄が応じようとしないんだって。大変だ大変だって言っているけど、本当は儲かっているんじゃない?」

 女将はそう言葉を継いで、笑った。

 あくまで前向きな話は、聞いていて素直に楽しい。そうかもしれないですね、とコーヒーを飲み干して、街に出ることにした

 * * *

 吉良吉田の街は、穏やかな空気に包まれていた。

 廃線跡の踏切の向こうには、かつては塩田だったという平地が海辺まで広がり、堤防の上に立つと、三河湾のやさしい景色が広がっていた。市街地に戻り、大通りから1本中に入ると、そこには、人通りはあって車は少ない生きている街が広がっていた。ふらりと入った地域特産の豆味噌を製造販売する店の老夫婦の「ここは、いいところですよ」という言葉も、素直に頷ける。

画像8

画像9

 蒲郡線の小さな鉄橋を赤い電車が渡った。ミハラさんがカメラを構える。

「この街は、どうもつかみどころがない」

 電車が過ぎ去って、ファインダーから目を離したミハラさんがつぶやいた。

 歩いたり、人と話をするにはいい街だが、写真は確かに撮りにくいかもしれない、と思った。

 今まで訪ねた終着駅はくっきりとした「個性」があった。吉良吉田にも個性らしきものはあるが、その穏やかさゆえ、突出するものはない印象だ。

「どの景色もいいんだ。でも『らしさ』を出すにはどうしたらいいかな、と思っているうちに、何を撮っていいかわからなくなってくるんだよ」

「この企画自体、ゆるいテーマですからね。そこまで考えちゃったら、ちょっと面倒じゃありません?」

「そうだけどさ」

 後ろ向きな話を一方的に終えると、ミハラさんはカメラバッグをかついで、堤防を降りていった。仕方なくぼくもついていく。

 降りたところは、JAの敷地だった。ここに昭和初期まで吉田港という貨物駅があった。JAの社屋に併設された理髪店の脇から直交する他の道路とは異なるゆるい曲線を描いて伸びる路地があった。

「これ、廃線跡だね」

 鉄道ファンは廃線跡と思われる道を見つけるとむやみに嬉しくなる。ついさっきまでの暗い雰囲気はどこかへ飛んで、幼少時からの「鉄」たる我々は、勇んで細い道へ乗り込んでいくのであった。

 * * *

 廃線跡らしき道はすぐに途切れて、その先の四つ角に1軒だけぽつりとあかりを灯した食堂があった。

 お酒を飲むには少し早い時間だったが、店がまえにそそるものを感じて、暖簾をくぐることにした。客は誰もいなかったが、ずらりと並んだ定食とラーメン類のお品書きの隅に、お酒のコーナーもちゃんとあった。

 ひとまず瓶ビールを頼んでメニューを見ていると、作業服を来た男性が入ってきた。

「ちょっと少なめで」

 と言うと、店の主人が、瓶ビールとコップ、ややあって心持ち盛りが控えめのチャーシューを運んできた。男性は、定年後も嘱託で仕事があるのはありがたいが少ししんどい、と主人に話しながら、ぐいぐいとビールを飲んでいく。

 時間が経つにつれ、作業服を着た男たちがぽつりぽつりと入ってきて、そのたびに主人が、瓶ビールとコップ、各自お気に入りのアテを持ってくる。店内は居酒屋の様相を呈してきた。

 大相撲の中継が流れていたのをとっかかりに、気の良さそうな男性に、ご当地力士の存在を聞いたことから話に花が咲いた。居酒屋の常で、やがてプロ野球の話題になった。

 入った時から聞きたかった質問を、店の人たちにぶつけてみた。

「松坂ってどう思います?」

 名古屋を本拠地に持つ中日ドラゴンズは、愛知県民にとっての「ご当地球団」だ。

 松坂大輔は、今年からこのチームの一員になっていた。かつて日本を代表する投手として大リーグでも活躍した松坂は、肩や肘を壊して失速し、ここ数年はまともに投げることすらできなかった。そんな彼が、ドラゴンズで奇跡的な復活を遂げた。往年の眩いばかりの輝きは望むべくもない。だが、テクニックを駆使したピッチングはいぶし銀のようで、見応えがあった。若き日の彼を心躍らせて見ていたぼくとしては、大贔屓の球団で活躍する姿は、素直に嬉しかった(注:松坂は結局この年〔2018年〕6勝を挙げて、諦めない姿勢を各方面から称賛されることとなる)。

 だから、同じドラゴンズファンとして、皆はどう感じているのか、聞いてみたかったのだ。

「うーん」

 店にいた男たちが顔を見合わせた。よそ者と率直にする話題じゃなさそうだ。

「ぼくドラゴンズめっちゃ好きなんです。生まれも育ちも名古屋で、最初のヒーローは田尾」

 途端に皆の顔がゆるんだ。

「じゃあ、分かるだろうけどさ、松坂が地元の人だったら、もっと応援できるんだけどな」

「もちろん嬉しいんだよ。でも、神奈川県生まれで、横浜高校、西武ライオンズ、大リーグでしょ。どうも感情を込められないんだよ」

 俺たちのドラゴンズに入ってきた「よそ者」への複雑な思いは、よく理解できた。

「今日はドラゴンズ勝っているよ。3対0」

 店の主人が、会話に入ってきた。

「どことやってるの?」

「カミさんに聞くよ」

 主人が奥に入ると、男性が教えてくれた。

「ここのお母さんさ、ドラゴンズ命だから、客が満員でもナイター中継が始まると奥に入っちゃうんだよ」

 瓶ビール1本空けてから頼んだチャーシューメンはうまかった。久し振りにドラゴンズ話を思い切りできたことが隠し味になったのかもしれない。

画像9

 酔いが少し回ったところで、駅に向かった。渡世の義理に縛られたぼくたちは、今日中に東京に戻らなければならないのだ。宵闇の中、駅の方から発車ベルの音がかすかに聞こえて来る。駅の裏手にある小綺麗なアパートを見て、ふとここに住んでもいいかもな、という考えが浮かんできた。

 吉良吉田で会った人たちは、充足していた。

 観光客は減ったかもしれない。でも、風光は明美で、ご当地産の味噌が食卓を彩り、大手製造業が定年後まで雇用を生む。気の利いた喫茶店と、うまいチャーシューで一杯やれる食堂もある。ご当地球団は不滅だし、電車だってちゃんと走っている。

画像9

 充足している人たちは、余裕がある分、親切だ。そして、積み重ねてきた歴史がある分、排他的で、地元意識が強い。どんな名選手でも、地元にゆかりがないと心から応援できないくらいに。地元生まれというだけで、初対面の人間に本音を出すくらいに。

 個性が薄く感じるのは、ディテールに差異こそあれ、この街が数ある日本の「田舎」のひとつだからだ。

「俺たちさ、何をしようとしてるんだろうね」

 そう伝えようと息を吸ったタイミングで、少し前を歩くミハラさんがつぶやいた。

 よそ者として、終着駅をめぐる旅。それをミハラさんとして、最終的にどうしたいのか、ぼくにもわからない。ただ、好きなんだろうな、と思う。終着駅で降りて、そこで会った人とあれこれ話したり、景色を眺めたりするのが。そして、その「好き」の先にある何か、よそとの差異でも、時代の違いでもない、普遍の「良さ」の輪郭をなぞりたいのだ。

 蒲郡線のホームに電車が入ってきた。廃線跡の踏切が鳴り、律儀に高校生やサラリーマンが立ち止まる。

 終着駅のその先に広がっていたのは、一瞬でも住んでみたいな、と感じさせるくらいに穏やかで、人の息遣いが確かに感じ取れる風景だった。

画像9

「食堂のおじさん、帰るときに『またここで一緒に飲みましょう』って言ってましたね」

「うん」

「また来ましょうよ」

 ミハラさんは、ぼくの問いかけには直接答えず、蛍光灯がしらじらと灯る車両に乗り込み、

「どこにでもあるようだけどさ、やっぱり他にはない街だよ、ここは」

 とひとりごちた。

文=服部夏生 写真=三原久明

画像9

【単行本発売のお知らせ】
本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年5月18日に天夢人社より刊行されます。

▼お求めはこちらから

服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのちに、フリーランスの編集&ライターに。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。他、各紙誌にて「職人」「伝統」「東京」といったテーマで連載等も。趣味は、英才教育(!?)の結果みごと「鉄」となった長男との鈍行列車の旅。
三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2018年5月に取材されたものです。

この記事が参加している募集

この街がすき

よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。