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“みず” 水の力も美しさも忘れた現代人|中西進『日本人の忘れもの』

8月1日は「水の日」です。万葉集研究の第一人者である中西進さんによる2001年刊行のロングセラー日本人の忘れものより、“水”について綴られたエッセイをお届けします。

日本人の忘れもの
中西進 著(ウェッジ刊)

いまや水の危機を迎えている

 近ごろ、地球上のいたるところで、水が問題になっている。

 土地の保水力がなくなったという。

 山の木をどんどん切ってしまう。すると、いままでは木の根によってしっかりささえられていた大地がもろくなり、たくわえられていた地中の水が流れ出し、山の斜面はくずれていく。

 あちこちで竹の旺盛な繁殖が話題になる。地表を竹が独占すると竹は根が浅いから地中はすかすかになり、やはり水が流れ出して大地はくずれるのだといわれる。

 いや、もっと世界的にみても、自然破壊によって水がなくなり、地中の塩分が地表へふき出しているらしい。

 人工的な汚染で飲料水がなくなる。いたるところにダムができ、下流は無惨に乾ききった姿を見せる。

 川は、せきとめられて自然な流れがゆがめられる一方、下流では高く高く土手を築き、自然な流域を制約している。

 これは一見、川を保護しているように見えるが、人間に都合がいいように仕組んだだけで、けっして川への愛情ではない。だから、どんなに川をとじ込めようとしても、場合によっては、凶暴なあばれ川と化す。

 また、不自然な護岸がよく問題になる。河口では自然ななぎさにうまれる、さまざまな生き物の生態系が破壊され、コンクリートの上を波がただようだけの不毛な場所になることが多い。

 それでもなお、都会の人間は、波うち際で遊ぶことができなくなった、遊べるような護岸に変えてくれ、と人間の要求をつのらせるにすぎないこともある。その先に、自然の生き物を殺したことが問題なのに。

 とにかく都市が肥大するにつれて地球上問題だらけになる。皮肉なことに都市化すること=civilizationが文明だという。文明は諸悪の根源である。

 とくに水は、人間生活にもっとも深く関係するから、いちばん大切にしなければならないものだろうが、日本でもトイレは早くから水洗式であった。「かわや」(川屋)というぐらいで、汚物を川に流す建物がトイレだった。

 川にいる魚はそれを食べる。八世紀の歌集『万葉集』にはすでに「くそふな」ということばがでてくる。それを下層民が、また食べる、という歌がある。

 日本のように山が海にせまり、川が多いところでさえ、すでに1000年以上前から川の汚染に悩まされているのだから、雨の少ない大地にあっては、わずかな川を求めて人びとが集まり、水の汚染はさらにひどかったであろう。

 中国では、水を支配するものが王として尊敬された。古代の聖天子・がその人である。彼は川の汚染と戦ったわけではなく、むしろコントロールすることに成功した人だが、汚染をふくめて、上手に川とつき合うことは、人類何千年かの永遠の課題である。

 ましてや川のみならず、水をどのように尊重するか、それは人間のもっとも基本の課題だろう。

 にもかかわらず、水を日本人が意識するのは、夏になって渇水期を迎える時だけではないか。しかもその時だって、「この町の水道行政はなっとらん!」などと他人のせいにするのが常である。

 もっともっと根幹の、水への尊重など、ほとんどの人が考えたこともないだろう。蛇口にはCとHと記号があって、ひねり方次第で好みの温度に水が出てくる。

「文明」の中で、みごとに人間は痴呆化していく。

日本人は水で、体を削った

 ひるがえって、古来、日本人が水とどう接してきたか、すこし思い出してみよう。

 古代の英雄・ヤマトタケルをめぐって、こんな伝説がある。彼は出雲の英雄・イズモタケルを征服にでかける。その時、彼は木製の太刀、つまりにせの刀をさしていき、イズモタケルをさそって水浴びをしようといった。

 ともどもに裸になり、ひと泳ぎしてヤマトタケルは先に陸へ上がり、イズモタケルのもっていた本物の太刀を身につけてしまう。そして後から上がってきたイズモタケルに打ちかかる。

 あわててイズモタケルは木の太刀で応戦するが、にせ太刀である。あえなく殺されてしまう。

 この話はヤマトタケルの悪がしこさを語っているようだが、神話としてみると、そうではない。ヤマトタケルは水浴び前までは木太刀のように弱い存在だったのに、水浴びによって強力な若者に生まれかわった、という話である。

 つまり水の再生力を語る神話だ。しおれた植物だって水でよみがえる。動物も水を飲めば生きいきとしてくる。切り傷だって皮膚病だって、まずは清潔が第一の治療だろう。再生力などというとややこしいが、こんなに水は根源の活力である。

 古い話ばかりではない。ついこの間まで、日本人はお正月に若水わかみずを汲んだ。というよりお正月最初に汲む水を若水といって大切にした。

 若水とは、若々しい水、つまり生命をやしなってくれる生命力あふれた水のことである。

 奈良の東大寺では二月堂の前の若狭井わかさいから水を汲む。この水は若狭の国からはるばると地中を流れてくるのだという。

 若狭という地名を若さと解し、ワカサの水といって、これほど大事にした信仰は他にないだろう。また若狭は日本海がわのこしの国と一帯の土地だから、古代日本が、別の世界と考えた、山越しの土地「越」の国からの水として尊んだ面もある。

 年の改まりとともに生命の水を飲み、寿齢に感謝しながら一年をスタートさせようという風習は捨てがたい。

 正月の水は何も井戸水を汲まなければならないわけではない。水道の蛇口の水でもよい。私が子どものころは、正月になると蛇口にまで輪飾りがつけられた。そこから若水をもらっても、何らさしつかえないのである。

 若水も、もう死語になったろうが、ほかに「みそぎ」ということばも、選挙以外にはふつう使われなくなった。汚職をしても、もう一度選挙に勝てば、それでみそぎをした、というわけである。

 しかし本当のみそぎは、いまでも修行として行われるみそぎや、神域に入るときにするみそぎである。

 以前、九州の沖の島神社にいった時、船つき場にみそぎの場所があって、そこでみそぎをしてから島の中に入ることが許される、というきまりであった。

 ところでこの「みそぎ」という日本語はどういう意味か。ややこしい経緯を省略して結論だけいうと、「そぎ」ということになる。「水・そそぎ」でも「身・削ぎ」でもないのである。

 だから、この研究上の手続きを信頼すると、水に入ったり、滝に打たれたりするのは、水によって俗悪なものを削りおとしてしまう、という意味にならざるをえない。

 私はそう思い当たった時、ことの重大さに圧倒された。鰹節かつおぶしではあるまいに、人間は水によって清浄な人格だけにしてもらえるとは。

 信じがたいが、古代人は、水とはそのようなものだと考えたのである。

 近ごろ奈良県の明日香村からスッポン形の石が出てきた。スッポンが生命力の象徴として尊敬されてきた、その証拠のような石で、まさしくみそぎの石の形であった。ここは即位儀礼にさえ使われた斎場と考えられる。

 伊勢神宮につかえる女性のひとりは、まず泊瀬はつせの山中の川で、みそぎをして身をきよめた。今、小夫おぶとよばれるところがそこで、川中のくぼみがそれだと、古老はいう。

 いずれも水の浄化力、再生力を強力にもの語っているではないか。

 もちろん、この思想は洋の東西を問わない。キリスト教にも、いわゆる洗礼という生まれ代わりの儀式があって、これも形式化してしまったばあいは頭に聖水をそそぐだけらしいが、厳格に伝統を守るばあいは、やはり全身を水にひたすことになる。

 それほどに尊い水の力があるのに、いまはほとんど水は渇きをいやすためだけのものにまでなってしまった。

 神社の参道には必ず御手洗がある。せめてそこで手をきよめ、口をすすいで神前に近づくぐらいのことはしようではないか。

 お相撲さんが戦いに入る前に「なぜウガイをするの」などと聞いてはいけない。これも神聖な土俵に入る前に、みそぎをしているのであって、風邪をひいているわけではない。

「相撲取り裸で 風邪ひかず」という文句があるではないか!

水は神々しいほどに美しい

 さらに、水は飲んだり身に浴びたりするためにだけ大事だったわけではない。

 水のもつ性格が、人間の心をやしなってきた。中国の古いことわざだが、「聡明な人は水が好きで、愛情豊かな人は山が好きだ」というものがある。後者、どっしりとかまえた山のような人が、包容力をもつという意味だから、同じようにいうと、かしこい人は水のように自由自在で、ものに固執しないという意味である。

「水は方円のうつわにしたがう」ともいうではないか。四角い容器に水を入れると水は四角い形になり、丸い容器なら丸くなる、ということだ。これも、水の自由自在なあり様を示す。

 人間、何かに悩んだ時、じっと水を見つめればよい。水とわが身がとけ合った時、人間は悩みから解放されるのである。

 また、水はみごとな表面をもつ。

 とにかく水面を斜めにしろといわれれば、だれもできない。私は登ったことがないが、ピサの斜塔の中だって水面は平らだろう。

 なにしろ水平というくらいだ。

 心にこんな平らかさを持つことができるだろうか、そう自問した時、私はひじょうにわが身を恥じた。

 この鏡面のような水の平らかさを、中国でも「明鏡止水」と、鏡と並べて表現した。水は自在でありながら、自分の本性を持たないのではない。微動だにしない美しさをもちながら、こだわりがないのである。

 以前、神職の方と話をしていた時、田んぼの水が広がっていて、まるで鏡のようにみえる。これは神です、といわれたことがあった。鏡のように平らな田の水面は、神のようにおごそかだという話である。

 この水がこおるとなると、いっそう張りつめた緊張感もともなってきて、神々こうごうしい水面が出現する。「氷がいちばん美しい」といった日本の中世の連歌師・心敬しんけいという人がいる。

 しかし田んぼもどんどんなくなるし、現代人は、湖がこおるとスケートをすることしか頭にない。

 ましてや神社の御手洗とトイレの区別もつかない。福井県から奈良県まで水が流れてくるなど、所詮お話しだと思っている。お正月に飲む水が、どうして生命力なのか、質問してくるにちがいない。

 水はのどが乾くから飲むにすぎない。川は暴れん坊将軍のようだから、コンクリートで閉じ込めておけばよい──。

 しかし水は人間も大地もうるおし、蒸発して大気となり、また慈雨として地上に戻ってくる。循環こそが仏教の無常性の思想をつちかった。

 水の大切さを、もう一度考えたい。

文=中西 進

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。

出典:日本人の忘れもの 2(ウェッジ文庫)

≪目次≫
第1章 営み
わたし  日本人らしい「私」が誤解されている
つとめ  義務や義理にしばられてしまった日本人
こども  自然な命の力を育てたい
もろさ  自然な人間主義を忘れた現代文明
あきない 立ち戻りたい商業の原点
まこと  改革はウソをつかないことから始まる
まごころ 人間、真心が一番である

第2章 自然
みず   水の力も美しさも忘れた現代人
あめ   雨は何を語りかけてきたか
かぜ   風かぜは風ふうとして尊重した日本人
とり   鳥が都会の生活から消えた
おおかみ 「文明」が埋葬した記憶を呼び戻したい
やま   山を忘れて平板になった現代人の生活
はな   日本人はナゼ花見をするか

第3章 生活
いける  花の本願を聞こう
かおり  人間、いいものを嗅ぎわけたい
おちゃ  茶道の中で忘れられた対話の精神
みる   識字率のかげに忘れられたビジュアル文化
たべもの もう一度、「ひらけ、ごまゴマ」
たび   つまみ食い観光の現代旅行事情

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