俳句に革命を起こした芭蕉の“発明”とは?|対談|小澤實×山口信博
取り合わせの発明
梅﨑:そもそも芭蕉って、どんな人なのでしょうか。小澤先生は『日本文学全集』(河出書房)の近現代詩歌の巻で俳句の選をされて、作家ごとにキャッチコピーをつけていらっしゃいますよね。正岡子規だったら「近代俳句の始祖」、高浜虚子は「近代俳句最大の巨人」、井上井月だと「江戸と明治をつなぐ」とか。そこで、ぜひ芭蕉にもキャッチコピーをつけていただきたいのですが。
小澤:僕は「俳句の原型を作った人」というふうに思っています。俳句というのは近代俳句の用語なので、正しくは発句ですけれども、その近代俳句の元を作ったのが芭蕉だと。もし芭蕉がいなかったら、それ以後の俳句の世界がどうなっていたか想像がつきません。俳句が蓄積されることもなかったのではないかと思います。その中でも一番大きいのが、「取り合わせ俳句」の発明だと考えていて、『芭蕉の風景』の中でもトピックとして解説しています。
梅﨑:『野ざらし紀行』についてのコラムですね。
小澤:句意は、「秋風が吹いている。現在の藪も畑も、もともとは不破の関だったのである」。「秋風」という季語プラス切字の「や」と、「藪も畠も不破の関」という風景描写、それを合わせて一つの世界を作っている。これが取り合わせ俳句です。
それに対するのが「一物仕立て」で、秋風だったら秋風のことだけを詠んでいる。季語のことだけで、五七五すべてを使ってしまう形ですね。取り合わせと、一物仕立てで、すべての俳句は説明がつきますので、お作りになるときにも、鑑賞するときにも、その二つの詠法をいつも心に置いていただきたいと思います。
梅﨑:取り合わせと一物仕立ては、季語との向き合い方がまったく違うと思うのですが、その違いについて教えていただけますか。
小澤:一物仕立ては季語そのものを描いていくので、いままで詠まれたその季語のすべての俳句を乗り越えないと、句として成立しないところがあります。対して、取り合わせの季語は、それまでにその季語で作られた、優れた作品の命を流し込むようにして作るわけです。先人たちの作品の力を借りていく。季語の使い方として対照的な違いがあります。
梅﨑:一物仕立てだけで行こうとすると、相当苦しい?
小澤:先人たちがみんなライバルになってしまうので、根性論的で、精神主義みたいな句になる。取り合わせの方は、みんなの力を借りていく。先人たちを友にしていくというか、そこが面白いところだと思っています。
山口:たとえば、原石鼎(大正~昭和期の俳人)の「秋風や模様のちがふ皿二つ」も、芭蕉を受けているんですか。
小澤:そうですね。古歌の秋風の寂しい雰囲気というものを受けて、芭蕉の句もあるし、石鼎の句もあると思います。
二物の衝撃
梅﨑:「不破の関」の句に戻しますが、取り合わせた藤原良経の歌について、詳しくお伺いしたいのですが。
小澤:「秋の風」の中には、秋風そのものと、荒れ果てた寂しさというものが含まれていて、それが芭蕉の「不破の関」の句の中に流れ込んでいる。和歌の枕詞とか序詞というのは、歌の内容からすると異物じゃないですか。この法則性はあるけれども関係ないものが入っているということを参考にして、芭蕉は取り合わせ俳句を発明したのではないでしょうか。
梅﨑:和歌に入っている枕詞などの異物が、詩の言葉を広げるというか、知的飛躍を生むということに気づいて、取り合わせ俳句を作ったということですか。
小澤:それから、新古今の時代の歌は、上の句と下の句でちょっとずらしてきますよね。その技法も、取り合わせと関係があると思っています。芭蕉は、一番自分が言いたいことと関わりないものが入っている面白さに、和歌を通して気づいたのだと思います。取り合わせた二物の衝撃が名句を生み出し、俳句に革命をもたらしました。
山口:取り合わせ俳句は、切れていないと二物になりませんよね。いつも悩んで、不安だからつい切字をくっつけてしまう。でも、「や」を入れても切れていないこともあったりして、切字で間をつくるのが難しい。どうしたらいいですか。
小澤:意識して、切ろう切ろうと思い続けるしかないんじゃないでしょうか。季語とそれ以外のものは離そうと、常に意識することが大事だと思っています。
山口:装丁の仕事も同じで、本とデザインの間が難しいんですよね。内容を個人として解釈しても、それが正解とは言えないわけです。構造とか商業性も考える必要があるし、編集者からのオーダーや予算の制約もある。考えているうちにわからなくなってしまったり、つい説明的に着地点を探そうとしてしまったり……。僕は、デザインの先生について勉強してきたデザイナーではないので、俳句からデザインを学んだり、考えたりということをすごくしています。小澤さんの俳句のお話を、自分のフィールドに持ってきて、デザインの方法として教えてもらっている感じがします。
文学とデザインの取り合わせ
梅﨑:『芭蕉の風景』の装丁についてのお話に入っていきたいと思います。イラストが浅生ハルミンさんですが、最初にご覧になったときはどう思われましたか。
小澤:毎月の「澤」(小澤さんの結社の雑誌)の表紙で使われていたイラストが、上下巻の二冊になっていて、驚きました。「たくらみ」にやられましたね。
山口:まず、ハルミンさんに「澤」の表紙として、二年間、24回分のイラストをオーダーしたんです。「澤」の同人の方々からは、いままでと違っていてかわいいというお声が多かったですね。それで下準備をしておいて、一気に『芭蕉の風景』に入れてお見せしました。
梅﨑:小澤さんには秘密で(笑)
山口:秘密にした気はないですけど、編集者との間でたくらみをしました。ほかにもたくらみはいっぱいしていて、たとえば帯を上巻と下巻で違う方向に斜めにしているんです。これは、人生の上り下りを象徴しています。
造本装幀コンクールの受賞作品は、技術の粋を凝らしたような作品が多いのですが、僕はそういうことは全然していなくて、装幀で本文の構造をどう表すかを考えたんですね。この本は、紀行文でもあるし、芭蕉の句集でもあるし、小澤さんの句集でもある。三つの構造を一つの紀行文としてまとめあげるには、どうやって造るか。
それは相当スタディーしたし、編集者とも校正も含めて、かなりやりとりしました。表層的なところではなくて、そういうことが認められたというのが嬉しかったですね。
小澤:僕もこの形になって嬉しかったです。軽やかで、これは「かるみ」だなと思ったんですよ。芭蕉の最後の境地である、日常平凡のところから詩を作っていくという「かるみ」の世界が体現されていると感じて、嬉しかったですね。
学者の堅苦しい芭蕉の本ではないということも、見れば即わかるように造られていて、それも嬉しかった。ハルミンさんのお手柄でもありますけれど、空間を広々と取って軽やかに動きを出している山口さんの装丁によるところも大きいと思います。
山口:実は、小澤さんの前著『名句の所以』(毎日新聞出版)と、わざと似たデザインにしています。
梅﨑:その本も山口さんが装丁されたんですよね。
山口:あの本から小澤先生を知った人は多いと思うので、それが残像としてあって、手に取ってもらえたらと思いました。『名句の所以』は、味岡伸太郎さんが作った書体を使っていますが、「の」の字がすごくいいんですよね。それで意識的に同じ書体を使っています。そうやって、できれば小澤實のアイデンティティーみたいなものを作れたらなと。
梅﨑:装丁をもって、中身とともに、小澤實を作るという。
山口:かなり策略家でしょ。
梅﨑:私は売る側として、タイトルも重要だけど、装丁が内容をちゃんと表しているかということをいつも気にかけて見ているんですけど、『芭蕉の風景』は、文章とデザインの関係が俳句の取り合わせのようですてきだと思いました。
小澤:読売文学賞を受賞した本は、二冊とも山口さんに装丁していただいていて、やっぱり装丁は山口さんにしてもらわないといけないなと思っております(笑)
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