元祖ミニマリスト鴨長明に学ぶ「身のほどを知る生き方」|『超約版 方丈記』(9)
身のほどを知る生き方
静かで憂いのない環境
~憂へなきを楽しみとす~
先のことは、ざっくりいって、どこでどうなるかわからない。
ここに住み始めたことも、そうだ。当初は、ほんのしばらく住んでみるかといった軽い気持ちだったのに、ふと振り返れば、いつの間にか、五年も過ぎてしまったのである。
そんなわけで、仮住まいのつもりだったこの庵も、いささか古びてしまった。軒には朽ち葉が深く積もり、土台は苔むした状態となっているのだが、それも悪くはないと思っている。
* * *
風の便りにそれとなく聞いた話では、よく存じ上げている高貴な方々が大勢、私がこの山に隠棲後に逝去されたというではないか。
ましてや、とりたてて話題にするほどではない人々の死ということになると、数が多すぎて、正確な数を知ることはとても無理である。
それと同じことがいえるのが世間の家で、たび重なる火災で焼失した数がどれほど多いことか。そういう騒ぎとはまったく無縁なのが、この仮の庵だ。のどかで、平和で、何の心配もない。
家は狭くても、夜寝て体を休めることができる床がある。昼間は、時間に縛られることなく、自由に心ゆくまで過ごせる場所もある。わが身ひとつを宿すのに、何の不足も感じない快適そのものの空間。それが、この庵なのである。
* * *
ヤドカリは小さな貝殻を好む。身のほどを知っているからだろう。ミサゴという鳥は荒磯で生息している。人を恐れるからだ。私も、ヤドカリやミサゴと同じ生き方をしている。
身のほどを知り、世間を知れば、あれやこれやと余計なことを願ったり望んだりする気持ちにはならないものである。なにごとにも、あくせくしないこと。ただ静かに暮らせることだけを望み願う。それに尽きると思う。
悩みがなければそれで十分満足であり、それなりに楽しい毎日をおくることができるではないか。それ以上、何を望み願う必要があろう。
気を遣わず、遣われず
自分の足で歩く暮らし
~身の為に結べり、人の為につくらず~
世間一般の家づくりというのは、必ずしも自分だけのためにやっているのではない。妻子や一族のためにつくることもあれば、親戚や朋友のためにそうすることもあるし、主君や師匠、財宝・牛馬のためにこしらえることだってあるのだ。
私はどうかといえば、自分ひとりのためだけに、この庵をつくったのであって、誰のためでもない。
そうした理由は、まず第一に、今の世の人情の薄い風潮が好きになれないからである。次に、私自身の境遇についても、一緒に暮らす伴侶はおらず、頼りにする者もいないからである。たとえ大きな家を建てて、広い間取りにしたところで、誰を泊らせ、誰と一緒に住もうというのか。
友人選びは、一般には、富める者を尊敬の対象として優先し、親しくなる傾向が強いといえる。どういうことかというと、その人が情け深いとか、素直な性格だとかを必ずしも評価するわけではないのである。
そういう選び方をするくらいなら、音楽や花とか月のような自然を友にした方がずっと有益だというのが、私の持論である。
人に使われる者の常として、賞罰は気にするし、報酬の多い少ないを最優先事項にしているから、雇い主にやさしくいたわってもらうことや、暮らしが平穏無事で安心していられることは、さほど願わないものだ。
そういう点を考慮すると、自分自身を奴婢のように扱う暮らし方が一番よいように私には思えてならない。
では、具体的にはどのようにすればよいのか。
その答えは、もし何かしたいと思ったら、自分で行動すること。それが一番だ。いちいち、自分で動き回るのは面倒と思う人もいるだろうが、人に指図したり、気兼ねしたりするより、ずっと気持ちが楽である。
どこかへ行く用事ができたときには、どんなに遠くても、自分の足で歩いていくにこしたことはない。たとえ苦しくても、馬や牛車に乗るために気を遣うことを考えたら、その方がずっと楽である。
何はなくとも健康一番
常に歩き・働くのが養生
~手の奴、足の乗り物~
今、あることを思いついた。この体を分身化して、二つの用をこなせるようにしたらどうかということについてだ。分身とは、「手の召し使い」と「足の乗り物」をいう。どちらも、忠実にこちらの意にかなう動きをこなすことができる。
自分の心身のことは、誰よりも自分が一番よく知っているから、どうしたら苦痛に感じるかという基本的なことも、わかりすぎるほどわかっている。だから、苦しいと思ったら休ませ、元気を回復したらまた働かせるようにすればいいのだ。
ただし、働かせるときにも気配りが必要で、度を越すような使い方をたびたびしないように、心してかからないといけない。手の召し使いや足の乗り物が、もし怠けても、心がいらつかないのも好都合だ。
人が常に歩き、常に働くことは、むしろ健康を保つ養生の道である。むやみに休みを取る必要などない。他人を煩わすのは罪である。他人の力を借りる必要がどこにあるのか。着るものや食べるものについても、同じことがいえる。
私は、自然に手に入るものを利用している。肌を覆う衣類は、藤のつるを剥いだ皮で織った衣であり、夜になって眠るときに使うのは、麻布でこしらえた夜具である。
食事についても、同様だ。道端に生えている野菊の若葉を摘んだり、峰に生えている木から落ちた実を拾ったりしたものを食べて、何とか命をつないでいる。
衣食は前世の行いに対する現世の報いであると私は考えており、そういう暮らしに不足も不満も感じたことは一度もないのである。
世の中に出て人と接することもないから、恥ずかしい姿を見せてしまったと悔いることもない。食料が乏しくなったら、粗末ないただきものをおいしく味わうだけ。それで十分満足なのだ。それ以上、何を求める必要があろう。
私が述べているこうしたひそかな楽しみは、富裕な人に告げているのではない。わが身ひとつを例にして、俗世に染まっていた昔と俗世を離れた今とをただ単純に比べているだけのことである。
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