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芭蕉ゆかりの嵯峨野落柿舎と自由律俳句の荻原井泉水|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第20回は自由律俳句の普及に邁進した荻原おぎわら井泉水せいせんすいが訪れた、松尾芭蕉ゆかりの地・嵯峨野さがのらくしゃです。井泉水は芭蕉や小林一茶いっさの研究者であり、種田山頭火さんとうかや尾崎放哉ほうさいの師でもありました。

俳聖・松尾芭蕉といえば、故郷の伊賀上野や江戸、「奥の細道」で旅した東北から北陸地方のイメージの濃い人物ですが、実は京都にも頻繁に訪れていて、ゆかりの地が市内のあちこちに存在しています。
 
中でも洛西嵯峨野の落柿舎には三度にわたって足を運んでおり、1691(元禄4)年には4月18日から5月4日まで17日間も逗留。この時の記録を『嵯峨日記』として著わしています。
 
その芭蕉の訪問から230年あまりの後、1924(大正13)年6月25日。一人の俳人が落柿舎を訪れました。彼の名は荻原井泉水。自由律俳句の旗手として、俳句史に燦然と名前の残る俳人です。

荻原井泉水 『日日好日』 写真提供=鳥取県立図書館

自由律俳句とは、五七五の定型に縛られず、また季語にもとらわれないで、感情を自由に表現することを重視した俳句です。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語が多いことも特徴のひとつです。

井泉水の代表作としては、「たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く」「月光ほろほろ風鈴に戯れ」「みどりゆらゆらゆらめきて動く暁」「湯呑久しくこはさずに持ち四十となる」「空をあゆむ朗朗と月ひとり」などが挙げられ、いずれも多彩な表現力と確かな観察力で、独自の世界を展開しています。

井泉水は1884(明治17)年に東京に生まれ、中学の頃より俳句を始めます。第一高等学校、東京帝国大学でも句作を続け、一高俳句会では高浜虚子の指導を受けました。1911(明治44)年に新傾向俳句誌「層雲」を創刊。主宰者として、自由律俳句の普及に邁進します。落柿舎を訪れたのはその2年後。井泉水40歳の時でした。

嵐山の若葉を前にして、嵯峨は初夏の頃が好い。嵐山の中腹へ、白い紙を所まだらに貼りつけたような桜の花が、二三日の雨にきれいにはがれ落ちてしまうと、紙人形のように、へらへらとした浮足で浮かれに来た人間達も、さっぱりと一掃されて、あとは日に日に若葉が鮮やかになるばかり、大堰おおい川を下すいかだの流れもしずかに、水盤に玉を転ばすキロキロという声は河鹿かじか*である。

*カジカガエルのこと

芭蕉が嵯峨に滞在していたのも、そうした頃であった。彼はきょらいの乞うままに、猿蓑さるみの集の選の相談にあずかるという為もあったのであろう、粟津の無名庵を出て、去来の別墅である落柿舎に半月余りの間、しゃくをとどめたのである。(略)

去来とは芭蕉の弟子で、特に優れた高弟である蕉門十哲の一人、向井去来のこと。若くして武士の身分を捨て、洛西嵯峨野に落柿舎という名の別荘を営んで、ここに暮らしていました。

1691年、芭蕉は去来の依頼を受け、芭蕉門下の俳人たちの句を集めた句集(『猿蓑』)の編集のため、粟津(大津)にある義仲寺の無名庵から落柿舎まで来て、ここに滞在したのです。ちなみに『猿蓑』の名は、句集の巻頭に置かれた芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句に由来するといいます。

また落柿舎という名前は、この別荘の周囲にあった約40本の柿の木から、一夜にして柿の実がすべて落ちたことから、去来が名付けたと伝えられています。

その落柿舎はその後廃頽はいたいして伝わらないが、小倉山の麓に近い茂みの中に、わずかにその名ばかりをとどめた一小庵が、今日に至って芭蕉を思慕する人の訪ねるよすがとなっている。

実は去来の建てた落柿舎と、公益財団法人が管理する今の落柿舎は同じものではありません。

芭蕉の訪れた落柿舎は去来の死後に朽ち果て、正確な所在地も不明となってしまいました。それを江戸時代中期の1770年に現在の場所に草庵が再建されたのですが、江戸、明治から昭和、今日に至るまで何度も荒廃の危機があり、複雑な事情を経て今の姿となりました。でもそのおかげで、芭蕉や去来を偲ぶことができるわけです。

落柿舎

嵐山を背にして釈迦堂へ向かいての広い道を、嵐山から飛び飛びにつづいているような松の並木に沿うていくと、「北、清滝きよたき、愛宕道、西、小倉山、じょう寂光じゃっこう、落柿舎」と道標がある。

西へ、すなわち左へとると、竹林にめぐらした藪垣に、里の女が十薬どくだみを蔓ごと引いている。問えば、陰干しにして「冷えぐすり」にするのだという。さて、落柿舎は、十薬の花を握ったその手で教えてくれる。すぐそこである。

井泉水は十薬と記していますが、これはどうやら多年草のドクダミではなく、ドクダミとは科の異なる別種の植物であるツルドクダミのようです。塊根を細かく刻んだものを干して、それを煎じて服用すると体を温める効能があるとされています。
 
厚く高い生垣が僅かに歩を入れるだけあいて、二三歩すさって古い門がある。扁額へんがくには「落柿舎」、表札には「堀――」と今の庵主の名がある。柿の木のやや老いたのが一本、縁に近く立って、庵の茅葺き屋根から門の方にまで若葉の枝をひろげている。庵は小さい座敷が三間もあるかと思われる程。

落柿舎の門

玄関脇に檜木笠と並べて掛けてあるガラスの中の絵葉書を見て、「絵葉書をいただきたい」というと、「まあ、お掛けなさい」という声は庵主らしい。そこに九尺の縁側が、沓脱石くつぬぎいしを前に、しぜんと腰をおろす所になっている。(略)
 
井泉水の訪れた大正時代でも、落柿舎を訪れる人は少なくなかったようです。やはり芭蕉や去来ゆかりの場所として、俳句をたしなむ人々にとっては聖地だったのでしょう。絵葉書まで用意されていました。
 
今日、落柿舎は嵯峨野散策では欠かすことのできない名所として、多くの観光客が訪れます。周囲には今も畑地が残り、かつての嵯峨野の鄙びた風景が想像でき、その中にひっそりと建つ茅葺きの屋根の庵の姿には、芭蕉の時代を思わせるような懐かしさがあります。
 
今の落柿舎の入口横の壁には、常にみのかさがかけてあります。これは本来は庵主の在庵と不在を示すサインでした。蓑と笠があれば在庵、なければ不在という意味が込められていましたが、井泉水は見たのでしょうか。

蓑と笠がかけられた入口

落柿舎の主、去来の墓というのは、今の落柿舎の背後、竹林を少し開いた所にある。大きな楠の木がすっくと立った下に、僅か一尺程の自然石の表に「去来」と二字を刻んだものである。これはまた何という小さな墓であろう。而して何と侘しい感じであろう。
 
落柿舎の裏、北へ約100メートルの弘源寺の墓苑内には、去来の墓が残されています。この墓には去来の遺髪が納められており、去来の唯一の記念墓です。去来にとって、芭蕉と過ごした嵯峨野の地には格別の思いがあったのでしょう。本来の墓とは別の墓を、あえてここに置いていたのです。

去来の墓

竹筒にさしたしきみだけは新しいが、竹垣は朽ちたまま修められていない。私はその前にしばらくしゃがんでいた。さらさらと音がして、竹の葉が降ってくる。竹林を打ち仰いで見ると、その青い直線の重なりが淋しくして美しい。墓は東に向いているが、いわゆる「大竹藪を洩る月夜」の月光がこの碑面に落ちる時はどんなに一層淋しい感じだろうと思う。(略)

去来の墓石

芭蕉は落柿舎滞在中に「ほととぎす大竹藪をもる月夜」という句を詠んでいます。井泉水は竹林の中の小さな墓を見て、この句にある月の光を連想したのでしょう。俳人のイマジネーションの深さがうかがえます。
 
芭蕉が嵯峨に滞在していたのは五月雨の頃とて、よく雨が降った。どこを見ても竹林の中に、青い太い雨の線条が降りそそぐ、音もなく――。而して地からは、若々しい皮を被った竹の子がにょきにょきと生えてゆく、音もなく――。雨の降らぬ日も曇っていた、柔らかい 絹の青いとばりを垂れたような若葉は、静かに庵の中に垂れこめているにも佳く、また、その帷をかかげてその奥にある古い寺を訪うたりするにも好かった。
 
芭蕉は、そうした薄ぐもりの涼しい日には落柿舎を出て、あたりを散策したのである。その跡を慕って来た私にとって、今日もまた、五月雨空はとんみりと曇っていぶし銀のような感じである。
 
おお、この高貴なる憂鬱。あまりにカンカンと照るのは卑しく、あわただしくすらある。うっすりと曇った空の下にして、人はゆっくりと物を思い、しみじみと物の哀れをも感じえられる。少なくとも曇りの日には幻想がある、追想がある、古人を偲ぶ為には、こうした曇り日が何よりである。私はすずろに杖をこう。
 
漫ろに杖を曳く――あてもなく散歩をする。井泉水は曇りの日がことのほか好きだったのでしょう。古人を偲びながら、あてもなく散歩を続ける。嵯峨野には五月雨空が似合うのかもしれません。
 
井泉水は1924年の春から1928年の秋まで、京都に住んでいました。東京生まれの彼が京都に来たのには理由がありました。実は前年の1923年に妻を、翌年に母を失い、一時仏道を志して京都の東福寺天得院に寄寓。旅に出て各地を遍歴し、京都周辺に多い芭蕉の旧跡を訪ねて歩いていたのです。彼が曇り空の下で偲んでいたのは芭蕉だけでなく、妻や母の面影だったのかもしれません。
 
井泉水は戦後も自由律俳句を牽引し続け、1976年に91歳で没するまで俳句界の第一線で活躍。句集、随筆、紀行など200冊以上の著作を残しました。彼の墓は港区六本木の妙像寺と京都市東山区の東福寺天得院にあります。

出典:荻原井泉水『京洛小品』「嵯峨散策」

文=藤岡比左志
写真提供=落柿舎

落柿舎
[住所]京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20 
[拝観料]300円(団体250円)
[拝観時間]9時~17時
※1月・2月は10時~16時
[休日]12/31、1/1
☎075-881-1953
http://www.rakushisha.jp/

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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