深い信心があれば、寄進などはいらない|齋藤孝『図解 歎異抄』より(4)
どんな高額な寄進をしてみても
心からの信心がなければ、まったく無意味だ
第十八条では、「僧や寺に、お布施として金品を寄進することがあるが、寄進が多いか少ないかによって、浄土に往生してから、大きな仏や小さな仏になるといわれている。これは、言語道断、不合理きわまりないことで、ありえない」と厳しく断じています。
そもそも、仏の体が大きいとか小さいとかを決めるなど、あってはならないことなのです。
どうして、こうしたことがいわれるようになったのでしょうか。それは、法然上人の著した『選択本願念仏集』に、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」「大きな声で念仏すれば大きな仏を見て、小さな声で念仏すれば小さな仏を見る」と記されているので、この説にこじつけて、こんなふうにいわれるのではないか、と類推しています。
これに対して、引用文に「一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ」とあるように、たとえ一枚の紙、わずかな銭も寄進しなくても、本願のはたらきに心をまかせて深く信心すれば、それこそ阿弥陀仏の本願の心にかなうことになるのだ、と説いています。
こういわれると、ほっとする感じがありますね。「救われたい。それには寄進をしなければ」と、つい思ってしまうけれども、寄進によって救われる、救われないなどということは、ありえない。そうなると、お金のない人にとっては、たいへんありがたい。「自分は寄進をしていない」と、引け目を感じている人たちは、救われた思いがすることでしょう。
寄進によって救われるわけではなく
心の底から信じることによって救われるのだ
これではどうも寄進が集まりにくいでしょうね。自分たちの宗教を広めていくためには、「寄進すればするほど、大きな仏になりますよ」などと説いたほうが、お金が集まります。
ところが「寄進などはまったく関係ありません」といい切っているので、そんなにお金が集まらない。親鸞には、大きな教団などをつくるつもりはなかったのでしょう。それよりも、もっと内面的な、心の中の問題をひたすら考えていたのだと思います。
寄進を不要とする、こうした考え方とは逆のことが、かつてのキリスト教にありました。それは贖宥状という免罪符の考え方です。信仰とは関係なく、教会が発行する贖宥状を買えば罪がつぐなわれて救われる。そうなると、買わない人は救われないかも、となるので、どんどん贖宥状が売れて、教会にはお金が集まることになります。
これに対して、16世紀ドイツの神学者、マルティン・ルターは、「なんと堕落しているのだ」と憤慨しました。
「イエスの教え、聖書に書かれていることと直接自分たちが向き合って、聖書と対話することが大事なので、真実の信心とは、もっと内面的なものだ。金で信仰を買うなんて、おかしい」と、改革を始めたのが宗教改革です。
親鸞の教えと共通するところがあるように思えますね。
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齋藤 孝(さいとう・たかし)
明治大学文学部教授。1960 年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション論。著書多数。新刊に『書ける人だけが手にするもの』(SB新書)、『60代の論語 人生を豊かにする100 の言葉』(祥伝社新書)がある。
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