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いざ紅葉!古都鎌倉|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第2回は、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台でもある古都鎌倉を歩きます。

わかりにくい鎌倉史

「なぜこんなに人がいるのだろう!? 週末でもないのに」。

 鎌倉駅におりると、いつもそう呟いてしまう。鎌倉は四季を通して行楽客が絶えないが、古都の見どころの多彩さは奈良や京都には比べようもない。そこに次の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』だという。鎌倉に多くのひとが惹かれる理由は何だろうか。僕は隣の逗子市で育ったが、この鎌倉という町、本当のその面白さを知っているようでいて知らなかったことに最近気がついた。

 東国の三浦半島の根っこに位置する、干潟と砂丘と山間やまあいの低地になぜ幕府を開いたのだろう? 武人が司る吾妻国の交易の巷に、最盛期には10万人に近い都人みやこびとがいたらしい。江戸期には水戸光圀も遊んだ一大観光地にもなった。けれども、その都には城壁も城塞も、天主楼閣、宮殿も無かった。あとに残されたのは数々の寺社と複雑な地形と益荒男ますらおの伝説だった。

 鎌倉という時代もむつかしい。京の朝廷と鎌倉の幕府、将軍と執権、どちらの権勢が強かったのか? 嫡流の源、北条、足利氏、皇室・公家とその相関図がおぼえられない。鎌倉殿・御家人の閨閥けいばつが加わるともう追いつけない。

 明治維新まで800年続いた武家支配の国、日本。そのうちおよそ150年間は首府でありつづけた鎌倉。時代が移ったのちも「武士もののふの都」として敬われ続けたそのわけを知りたかった。

低山トレイルで見える都

 鎌倉の山歩きといえば、通称「鎌倉アルプス」の天園てんえんコースだ。東北西と扇形に町並みを囲む稜線。その尾根道を通して歩きたいのだが、小町通りをそぞろ歩く気分のままで行くと意外にきついことに気づくだろう。この山並みはかつて都を防御する天然の要害だった。

「鎌倉七口ななくち」は切通しが7つで、三浦層群の山を開削した交通と防衛の隘路あいろだ。もっとも峻厳な朝夷奈あさいなのそれは六浦湊むつうらみなと(現横浜市)をつないでいる。鎌倉側の十二所じゅうにそから番場ヶ谷ばんばがやつの渓谷にわけ入る。ここは鎌倉随一の秘境ともいえる場所で、抜けると、天園の稜線に至って、鎌倉の全景を見下すこともできるのだ。町歩きでは分からない鎌倉を実感したいと思った。

 竹林、草叢くさむらをわけてハイカーの踏み痕をたどり、吉沢川の源流をめざした。聴きなれない鳥のさえずりと樹々のこすれる音がさざ波のように聞えてくる。やがて巨大な一枚岩の川床を洗う清流が現れて、滑滝なめたきが渦をまいている。濃密な精気に圧倒され、切立った両岸の石や鎖場付きの林道を抜けた。まるでインディ・ジョーンズになったようで、もののけの気配すら感じる、それは知られざる鎌倉だった。

2〇番馬ケ谷_DSC_1161

 水源の杉林を登り切ると、時折ハイカーにも出会う天園コースに出る。天園の峠は「鎌倉アルプス」の中間点になる。鎌倉石の山道を上ったり下ったりしているとランナーに追い抜かれる。ランニングとトレッキングを同時に味わえるトレイルランになっているのだ。

天園の峠

「夜更けにヘッドライトを灯して駆け回っているランナーが大勢いるよ」。こう言うのは峠の「天園休憩所」に住む茶屋の主人だった。大正13年(1924)創業、当初は「日源荘にちげんそう」という屋号で逗子に別荘をもっていた海軍元帥・東郷平八郎から名を授かったという。

「コロナ禍で休日はともかく、平日は客がほとんど来ないな」と主人。とはいえ山頂の茶屋で風に吹かれ、山の生活や土地の故事を聞かされると疲れも消えるのだった。

3〇天園休憩所_DSC_1243

 ここ天園への主なルートは三本ある。一本目は市中の瑞泉寺からの山道(現在は土砂崩れで通行止)。二本目は横浜の金沢区からの縦走路だ。なかでも三本目の北鎌倉の建長寺への道は途中に見どころがたくさんあり鎌倉という都を知るにはおすすめだ。

鎌倉最高峰の大平山

 鎌倉最高峰の大平山(159.2m)は天園から間もない。開府とともにこの尾根道は、切通しと同様に自然も地形も改変されてきたという。路傍には鎌倉特有の「やぐら」と呼ばれる岩窟墓が穿たれている。埋葬されているのは武士や高僧らしく、山上から都の現世を眺めているかのようだ。十王岩じゅうおういわからは若宮大路わかみやおおじが一直線に伸びるのが見え、その先に相模湾が広がっている。

 源頼朝は平安の京都を模して開都したが、この風景、海がなければ洛北の鞍馬山からの俯瞰に似ている。天園コースの西端は建長寺の境内の裏手に続いている。鎌倉五山第一位の禅宗の名刹だが、奥の半僧坊はんそうぼうには山岳信仰を思わせる天狗像が林立している。

 仏殿への参道で突如「虫塚」が現れる。解剖学者の養老孟司氏考案、隈研吾氏設計の、生き物供養のオブジェだった。

獅子舞の紅葉

 さて時節は晩秋、鎌倉の今季の紅葉はどうだろう? 僕は天園からの枝葉ルートで獅子舞の谷へ向かう道をすすめたい。地元住民は紅葉谷と呼ぶが、ここのゆかりの人物が斜面に露出した獅子似の岩から獅子舞と名を付けて、鎌倉の紅葉の名所に定着したという。

4〇獅子岩(舞)DSC_1273

 急な山道から見上げると楓と銀杏、淡い紅色と黄金色がみごとだ。番場ヶ谷の野趣な峡谷とは違って、二階堂川の優しい渓流美も味わえるのだ。

9獅子舞谷DSC_5631

5〇獅子舞谷二階堂源流DSC_5644

 獅子舞の谷から平地に出るとそこは二階堂。源頼朝創建の三大建築のひとつ永福寺跡ようふくじあとが復元されている。苑池に浮かぶ浄土のようだが、弟の義経や奥州藤原氏討伐の怨霊供養の縁起を知ると、ここは武者らが生死を賭した鎌倉なのだと改めて感じる。秘境歩きで癒された心体にはちょっぴりスパイシーだったが。

永平寺二階堂DSC_1354

永福寺跡

 ここから鎌倉宮かまくらぐうをへて頼朝・政子と父時政の大倉幕府趾おおくらばくふあとへ進もう。都の外周をめぐりおえたら、次は鎌倉史のもう一つの舞台へわけ入らねばならない。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。
注:時節により鎌倉市、横浜市の各ハイキングコースには、大雨や台風の影響で一部通行止、禁止の箇所があります。お出かけの際は状況をご確認ください。

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