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蛤のふたみにわかれ行秋ぞ|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

はまぐりのふたみにわかれゆく秋ぞ 芭蕉

水門川に沿って

 芭蕉は元禄二(1689)年、八月二十八日ごろ、大垣に着いた。それが東北・北陸を巡った『おくのほそ道』の旅の終わりであった。芭蕉はこの年このあとも、伊勢、伊賀、奈良、京、近江湖南と旅を続ける。それなのになぜ、『おくのほそ道』はこの地を終章としているのか。近畿の土地には深い文学の伝統がある。その土地について書いてしまうと、東北北陸の印象を削ぐ。そして、大垣自体、弟子も多く、生涯四度も訪れている地であった。芭蕉にとって落ち着ける場所だったからだ。今回はその土地、大垣を歩いてみたい。

 掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「離れがたい蛤の蓋と身とが別れるように、親しい者たちと別れて二見が浦へと行こうとしている。折から秋という季節も去り行こうとしている」。

 名古屋で新幹線から東海道本線に乗り換え、四十分程度で大垣に着いた。大垣は城下町。小高い場所に城が聳える。ここの城主戸田公の政策の一つ文教奨励が、大垣俳壇を生みだした遠因の一つ。城は旧国宝であったが昭和二十年、戦火で焼失してしまい、戦後再建された。城をめぐって水門川が流れる。かつてこの川は城の外堀の役を果たしていた。現在は川沿いに「四季の路」と名付けられた遊歩道がしつらえてある。川の水量は多く、丈のある水草がうねるようになびき、そのなかに大きな鯉がほとんど全身を埋めて泳いでいた。

『おくのほそ道』の「大垣」を読もう。「露通もこの港まで出で迎ひて、美濃の国へと伴ふ。駒に助けられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、越人も馬を飛ばせて、如行じょこうが家に入り集まる」。

 意味は「露通(路通)もこの敦賀の港まで出て、美濃の国(現在の岐阜県)に同行する。馬に助けられて、大垣の庄に入ると、曾良も伊勢(現在の三重県)から来合せ、越人も馬を飛ばして、大垣の如行の家に入り集まった」。

 大垣以外の弟子では、露通(路通)、曾良、越人が集う。路通は元々この旅に同行させようとした弟子であった。大垣の弟子は如行、そしてこの文の後、前川、荊口が出てくる。華やぎつつ大団円を迎えるのである。この文のあと、弟子が師を見る目が「蘇生の者に会ふがごとく」と描かれているのにも注目される。あの世から帰ってきたものを見るように見ている。

木因との交遊

 駅から歩いて三十分ほどで、奥の細道むすびの地記念館に着いた。展示の柱になっているのは谷木因と芭蕉との交遊である。木因は大垣俳壇の中心人物。水運業を営みながら芭蕉と同じ北村季吟きぎん門で俳諧を楽しんだ。延宝八(1680)年ごろから書簡などを通して緊密な交流があり、芭蕉の理解者の一人であった。

 芭蕉が大垣を訪れたのは、貞享元(1684)年『野ざらし紀行』の旅の途次、木因を訪ねたのが始まりだった。文中、「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす」とある。「木因俳句道標」も記念館の中に保存されていた。木因が芭蕉のために立てたとされている道標である。「南いせ(伊勢)くわな(桑名)へ十り(里)ざいがうみち(在郷道)」。季は入っていないが定型、俳句の形になっている。

 木因は大垣での蕉門の基を作った人であるのに、先の『おくのほそ道』の記述には名前が出てこない。「その他親しき人々」の中に入ってしまっている。この時、芭蕉は木因にご馳走してもらったり、舟で長島まで送ってもらい舟の中でともに付句を楽しんだりしている。それなのにである。芭蕉の俳諧の変化に木因がついていけなかったのか。それとも木因に純粋な蕉門ではないものを感じとったのか。芭蕉の胸中にはたしかにひやりとするものがある。

 記念館を出て、水門川の川下に歩くと、木造の住吉燈台と舫ってある川舟が見えてくる。船町湊である。かつては船便が盛んで桑名、三河から青果、海産物などが陸揚げされた。木因は江戸船二艘、川舟七艘を所有するこの湊の船問屋だったのだ。芭蕉もここから舟で伊勢に発った。昭和初期まで続いた木因の子孫・谷家は当時の大恐慌に抗しきれず、没落。木因の屋敷跡は現在大きなパチンコ屋になっていた。

 川岸には芭蕉の像と「蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ」の句碑である蛤塚が建てられている。『おくのほそ道』の本文にはこの句の前に次のようにある。「旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮せんぐう拝まんと、また舟に乗て」。意味は「長旅のつらい思いもまだ癒えないのに、九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝もうとして、また舟に乗って」。新たな舟での旅立で文は閉じられる。紀行が江戸深川より舟に乗ったところから始まったこととの照応も思われる。

 掲出句に戻ろう。「蛤」は蛤の産地「ふたみ」を導きだす枕詞のようにはたらく。「ふたみ」は掛詞。歌枕の「二見」と蛤の「蓋と身」とが重ねられている。同時に「別れ行く」も友との別れと秋という季節との別れとが重ねられる。解説すると理屈っぽくなるが、句は流れるようだ。芭蕉の思いの深さが技巧を目立たせない。

『おくのほそ道』の旅はここで終わるが、二見への新たな旅が読後の余韻を広げる。あたかも伊勢二見の神々しい海光が芭蕉の歩ききた東北・北陸の山河をはるかに祝福しているようだ。

秋日和みづくさ水の意に添ひぬ 實
みづくさに埋もるる鯉や秋日和
秋の水はせをのために標立て
川の港木の燈台や鳥渡る

※この記事は2001年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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