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追浜、トンネルを抜けると海鷲の記憶が|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第10回は、追浜を舞台に、軍港としての横須賀の記憶を辿ります。

 トンネルだらけの町、横須賀。

 鉄道も道路も険阻けんそな山をつらぬき谷戸とみなとをつないでくれる隧道ずいどう。なかでも北端の追浜おっぱまにはそれがいちばん多く隧道めぐりが町おこしになるという。*

*『追浜トンネル物語』 NPO法人アクションおっぱま編

 明治以来のタイムトンネルを抜けるとそこは昭和20年以前の追浜だった。改札口をでるとDOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA の蒼い文字が目についた。横浜DeNAベイスターズだ。DOCKは船渠せんきょ。艦船を造り、修復し再船出させる。近代造船発祥の地の横須賀らしい。追浜には横須賀スタジアムと改名した球場があり、青星寮(DOCK)という合宿所を設けた。追浜駅構内には寮生なのか2軍選手のポートレートが展示されて清々しかった。

 追浜駅前の大通り、夏島貝山通りは、かつて特23号道路の名の航空関連の専用路だった。3万人以上の職工員が毎朝夕に黙々と歩いていたという。

追浜駅周辺には昭和な建物が残っている

 追浜タイムトリップには、まずエナジーを補填しよう。駅の北には創業70年の(有)北原製パン所のレトロを超えた店舗がいい味をだしている。横須賀名物のポテトチップパンは午後には売り切れるのだ。駅前には鳥海病院(竣工 昭和8年[1933])の、和室もあるというパステルカラーの下見板張建築が健在でほっとする。

ポテトチップパン、奥はウェハースパン
鳥海病院

 大通りを離れ古道の浦賀道をたどると、まずは平六へいろく隧道(竣工 昭和14年[1939])だ。静かな人専用トンネルで抜けると浦郷小学校(明治7年[1874])にでた。以前山越えしていた子供たちのために素掘りでできたが、戦争末期に軍が倉庫として使い扉で封じられた。

平六隧道

 そのせいか、戦後、この小学校に通った僕の知人は、トンネルには平六という名の兵隊の亡霊がでると噂をしたとか。ただこの地を「平六ヶ入へいろくがいり」と呼ばれたのが命名の理由だが。

 追浜エリアでいちばん賑やかだった深浦湾岸に向かう。*

*『追浜ふるさと写真集』追浜古写真集編集委員会編 追浜地域文化振興懇話会刊

 トンネルは筒井隧道(明治38年[1905])で、昭和な平六隧道から一転してイギリス積式の赤レンガ製だ。特色は改修時に出入り口をゆるやかな勾配にするため道路を掘り下げたこと。縦に細長一車線の隧道は珍しい。追浜には道路用隧道が16あり、ここは2番目に古いものだ。隧道上には昔の山道が残っていて、これをたどるのも愉しい。

筒井隧道

 さて、もっとも古いのは梅田隧道(明治20年[1887])になる。筒井隧道から南下して枝道に入ると、あたりは深閑とした木立に。バスや大型車は迂回トンネルの日向ひなた隧道(昭和8年[1933])を使うのだろう、勝手知る地元民しか通らない様子。洋式レンガではなく、さらに古い石造りのブラフ積みだ。隧道内は後年改装されているが、十分ではない照明が闇をつくり、共鳴する足音がたまらない。暗がりを抜けると新緑とウグイスのさえずりが迎えてくれた。

梅田隧道

 出入口には記念石碑が建立されていた(樺山かばやま資紀すけのり海軍大将書)。三浦郡浦郷うらごう村と呼ばれたこの地は、山に遮られて隧道以前の集落どうしの交通は海路によっていて、トンネルの掘削で一気に変化がもたらされた。明治15年(1882)海軍がこの沿岸を訓練所や工場に買収したため、漁師ら土地の人びとは軍需工場にも通った。地元有志が国に頼らず自力で隧道を作り、それは横須賀市初の民間人掘削のトンネルだった。
 
 榎戸えのきどのバス停が立つ商店通りは人の気配が消えて午睡しているかのようで、能永寺(応永元年[1394])に寄り深浦ふかうら湾にでた。リアス式の浦賀に似たその名の通り、せまくひろの深そうな湾。 鎌倉時代、榎戸えのきど湊は浦賀うらが六浦むつうらと並ぶ外港で、江戸期には相模湾の魚介類を江戸に供給する港として栄えていた。正観しょうかん寺(伝天正年間)はそんな深浦湾岸を一望できる、後北条氏の見張所でもあった。

深浦湾
湾内ではクサフグの産卵が見られる
右手山上の三角屋根が正観寺

 さて最後のトンネルを抜けねばならない。

 追浜隧道(明治45年[1912])はこれも明治期らしい赤レンガで、冠木門かぶきもん扁額へんがくがしっかり施工されている。この隧道の脇の急坂を登ると官修墓地という名の霊域がある。西南戦争のとき九州に出征した東日本の官軍兵士ら、帰路船中でコレラに感染死した48人を祀る場だったもの。毎年追浜の町内会が慰霊祭を行なっていていつも墓前はきれいだ。

追浜隧道の冠木門
扁額の下には要石が見える
官修墓地

 トンネルを抜けた目的地の海軍航空隊と航空技術しょう趾の全景は、この墓地の坂上から俯瞰して見ることができる。

 追浜隧道ができた同じ明治45年・大正元年[1912]*、ここ白砂青松の海岸から一機のフランス製水上飛行機が離水した。金子養三ようぞう大尉(1882~1941)の操縦で飛行時間は15分間、この年が日本海軍初の試験飛行だった。そして埋立地に追浜飛行場が作られて海鷲うみわし、海軍航空隊が誕生する(大正5年[1916])。

*金子養三、河野三吉大尉が飛んだのは11月で大正時代になっていた

 航空機の実用実験を兼ねた海軍横須賀航空隊は、飛行機部門の研究開発の航空廠を併設、後に航空技術廠(空技廠)*となる(昭和7年[1932]および昭和14年[1939])。

*昭和20年[1945]第1航空技術廠に改名、第2は現在の横浜市金沢区に拡張建設。参考資料:『横須賀鎮守府』田中宏巳(有隣堂)、『海軍空技廠』碇義朗(光人社)

 西南戦争の記憶の場から歩いて5分、一転して戦前昭和な先進テクノロジーの史趾に着いた。

 空技廠本庁舎(昭和7-9年[1932-1934]~平成18年[2004]除却)前には天皇の行幸碑とともに空技廠の記憶を伝える、詳細な案内板と地図(横須賀市教育委員会)が設けてある。44万平方メートルの敷地にはエンジン、材料、機体、プロペラ、風洞、製図、模型、航空医学などの実験場や試作工場があった。この見取図にそって歩いてみよう。

右後方に旧図書庫が見える

 空技廠は米軍に接収後、民間に払い下げられて中小の企業工場や倉庫群になっているが、その配置は戦中とほぼ同じで、いまだ当時の建物が残って流用されている。昭和初期のモダニズムな研究所や、蔦のからまる風洞ふうどう場が、廃墟になるまでの余命をまっとうするように、語りかけてくる。これは、写真の上では廃墟美かもしれないが、技師らの汗と血の戦争遺産だと思うと複雑な気分になってしまう。

旧風洞場

 空技廠は名機と言われた「銀河」や「彗星」、日本初のロケット機「秋水」ジェット機「橘花きっか」を手がけて、その人材は戦後の国鉄鉄道技術研究所などに集まり、東海道新幹線0系を生んだ。空技廠でレーダーをやっていたソニーの盛田昭夫はじめ自動車産業にも伝承されたという。彼らは敗戦国日本で姿を変えた救国の兵士だったかもしれない。

 さて空技廠の端に貝山かいやまの丘が隆起していて防空壕や飛行機の掩蔽壕えんぺいごう穿うがたれている。隣り合うのが海軍横須賀航空隊だ。元は実験飛行隊だったが終戦時には本土決戦のために、戦闘用機が300機近くも秘匿されていた。

かつて坂の向こうには航空隊の飛行場が広がっていた

 空技廠エリアを抜けると、海軍横須賀航空隊正門だった交差点にでた。かつての飛行場は巨大な工業団地として日産自動車や住友重機の工場が占めていて、いまその痕跡を見ることはかなわない。

 さきの地下壕をめぐらした貝山の坂を登ると、追浜神社の石碑が雑草の間に見え隠れしている。海軍航空発祥之地碑(昭和12年[1937])が他所よそからここに移され、若鷲と呼ばれた予科練*の鎮魂碑がいくつも立っている。公園化されたこの山だがいつ来ても人の姿を見たことがない。

*海軍の飛行予科練習部の略(創設昭和5年[1930])。前世紀の大戦間、欧米ではパイロットは貴族か将校士官だったが、日本では下士官兵にも充てられた。海軍では青少年を対象にした予科練制度ができ、不足する空中搭乗員を育成した。追浜で誕生し戦争の進捗につれ茨城の霞ヶ浦かすみがうらなどに移設拡大して、末期は特攻兵にも当てられて戦死率8割という終幕だった。

海軍航空発祥之地碑
砲弾形の石が周囲を囲んでいる
(※ヘッダー写真参照)
予科練の鎮魂碑

 貝山を下りると、ここはドバイかと錯覚するアイクル(愛のリサイクルの意)のアラブ風味な巨大ビルがそびえている。横須賀市の環境リサイクル施設だけれど、一般の人でも館内で休憩できる。

 トンネル旅の道中、さきのポテトチップパンを摂ったので、おやつのウェハースパンをいただこう。さいごはアイクルの向かいに展示されている、東京湾要塞の第三海堡の遺構*を見物する前に。

*横須賀市指定重要文化財。 参考資料:『東京湾第三海堡物語』NPO法人アクションおっぱま

東京湾要塞の第三海堡の遺構
関東大震災で沈没、平成22年[2010]現在地に移設

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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