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名作『銀の匙』の作家・中勘助と洛北詩仙堂の花の庭|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第19回は小説『銀のさじ』を執筆し、恩師である夏目漱石に見出された作家、なか勘助かんすけと京都洛北のせんどうじょうざんの庭です。『銀の匙』は、全国屈指の進学校である灘校(兵庫県神戸市)の国語の授業で中学3年間をかけて読む題材になったことで話題になりました。中は1958(昭和33)年4月、夫人と共に詩仙堂を訪れ、サツキやツツジが今を盛りとばかりに花咲く庭を詩のように美しい表現で称えます。

なか勘助かんすけ(1885~1965)は、大正から昭和にかけて活躍した小説家・詩人・随筆家です。20代で発表した自伝的小説『銀の匙』が高く評価を受け、一躍世間の注目を集めましたが、居を転々として放浪生活を送るなど、文壇とは一線を画した「孤高の作家」とも評されました。 

中勘助 写真提供=静岡市文化振興課

勘助は1885(明治18)年に東京に生まれ、現在の文京区小日向で育ちます。生まれつき虚弱体質で、頭痛に悩まされることの多い子どもだった彼は、生母が病弱だったこともあり、幼少期は同居していた母方の伯母に育てられます。この時代の回想が後に名作『銀の匙』となったのです。

第一高等学校に進学した勘助は、安倍能成よししげ、小宮豊隆、野上豊一郎らと同級となり、イギリス留学から帰国して一高の講師となった夏目漱石の講義を受けます。このことが、勘助が作家として世に出る機会につながりました。

東京帝国大学卒業後、2年間の軍隊生活を経て長野県野尻湖畔で静養していた勘助は、そこで処女作『銀の匙』の前篇部分を書き上げ、原稿を恩師である漱石に送付します。漱石は作品に高い評価を与え、その推薦もあり1913年4月から「東京朝日新聞」に連載され、勘助は作家として認められることになります。

その後、勘助は小説や随筆だけでなく詩人としても活動します。勘助は旅行が好きだったようで、京都にも戦後5度にわたって旅をしています。季節はいずれも4月、5月。春から初夏にかけての京都が気に入っていたのでしょう。1958(昭和33)年4月8日、古希を過ぎて最晩年を迎えた勘助は夫人とともに詩仙堂を訪ねました。

出町柳で電車を比叡山ゆきにのりかえ一乗寺でおりて歩く。路は山のほうへだらだら登りの七八町、ひやひやするほど薄着をしてきたのに汗がにじみはじめる。

詩仙堂という石の立ったささやかな門をはいる。涼しげな竹の疎林があり、木もこんもりと繁っている。それから石段をあがって草ぶきの門をくぐり、玄関で案内を乞う。年配の婦人に導かれて客間へ。

詩仙堂の門

石川じょうざんのこの隠栖いんせいの処は後世の手が加わってもとのままではないとかきくが、それはそれとして目のあたり見る繊細な庭園の眺めに心をひかれる。
 
小山のようにもりあがった傾斜面にいろいろさまざまの木が綾織りを重ねたみたいに密生している。きょうぼく灌木かんぼく闊葉樹かつようじゅ針葉樹、常磐木落葉樹、それぞれの色や木肌をみせて、こまかにかたばかり芽ざしたのや、やや広くかなりの新緑を匂わせてるのなど支那の山水の密画を見る趣がある。
 
詩仙堂丈山寺は京都の洛北、左京区一乗寺にある曹洞宗の寺院で、江戸時代の文人で元武士の石川丈山が隠棲し晩年を過ごした山荘のあった場所です。傾斜地を利用し、高低差を生かした庭園の美しさは有名で、四季折々の景観が楽しめます。
 
座敷から広縁越しに眺める庭には白砂が広く敷かれ、丸く刈り込まれた植え込みの向こうにはさまざまな樹木が植えられています。秋になるとこれらが見事な色合いを見せるようになり、詩仙堂は京都屈指の紅葉の名所として、多くの拝観者で賑わうようになります。
 
ですが、勘助が訪れたのは秋ではなく4月。実は詩仙堂の庭は、春から初夏にかけてもとても素晴らしいのです。
 
なかにひと際目だって今を盛りと咲いてる早乙女つつじ、そのうえに山桜、そのしたに白椿。それから右て平野の彼方には幾層の山脈が濃く、淡く、影のように重畳して空に溶け込んでいる。山つつじが咲くととても綺麗だといい、新緑の頃がいちばんいいともいう。

傾斜面にある詩仙堂の庭には多くの花があります。春はサツキやツツジ、夏には花菖蒲や紫陽花、冬には山茶花など、色とりどりの花々が咲いて、庭のアクセントとなっています。ことに新緑の時季は若々しい緑が花を引き立てて、庭はひときわ美しくなります。

色鮮やかなサツキが美しい庭園

ちなみに、詩仙堂には1986年にイギリス王室のチャールズ皇太子(現・国王)と故ダイアナ妃が訪れたことがあり、それは5月9日のことでした。お二人は住職の案内で、まさに新緑の庭を散策されたのです。
 
縁の右隅、ちょうばちのところに、見るから古い山茶花さざんかが根もとから分かれた見事な幹をひろげてまっ黒に繁っている。聞こえた名木だそうだ。
 
そのもとのへんにのびのびと生い立った葉蘭の一枚の葉の裏に、小形のかたつむりがついている。
 
ひとつ葉にまいまい隠る詩仙堂
 
勘助がここで触れている山茶花の木は、もとは石川丈山が1641(寛永18)年に詩仙堂に隠棲した際に植えたと伝えられる樹齢300年超の大樹でした。しかし、1995年に台風によって惜しくも倒れてしまいました。今は2代目の山茶花が植えられています。

縁側の右手にあるのが手水鉢。かつては手水鉢の横に大きな山茶花の木があった
詩仙堂の門のそばにある山茶花の木。樹齢は100年近い

石川丈山といえば、私どもの時代の者には親しみ深い名だが近頃の人にはどうだろうか。彼は生えぬきの三河武士で、大阪夏の陣には麾下きかに従って出征、武功にはやって抜け駈けをし首をとって実検にそなえた。
 
家康はその武勇には深く感じたけれども軍令に背いた罪は赦されず、ことにかねての寵臣のことゆえ、それだけいっそう依枯の沙汰もしかねて惜しみながらもしりぞけてしまった。涙をふるってしょくを斬る趣だが、彼には敗戦の罪があり、これには武勇の誉がある。家康の心中思いやられる。
 

丈山はそれから藤原せい* の門に遊んだ。が、母が老いて家が貧しかったので浅野ながあきら* の招きに従って千石で抱えられた。数年の後母の死後致仕ちししてここ比叡山の西麓、当時の一乗寺村に隠退し、風月を友として九十の高齢をもって歿したのである。(略)

藤原惺窩* 戦国から江戸初期にかけて活動した儒学者。近世儒学の祖。
浅野長晟* 江戸初期の大名。広島藩初代藩主。浅野長政の子。 

石川丈山は、三河国で代々徳川家(松平家)に仕える家に生まれた武士でした。名は重之。若き頃より徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いや大坂(大阪)夏の陣にも参戦しました。ところが、大坂夏の陣での軍令違反をとがめられ浪人。その後、浅野家に仕えたもののやがて武家勤めを捨てて隠棲し、59歳の時、一乗寺村に山荘を造営します。

石川丈山の肖像画

隠棲した丈山は、この山荘で林羅山らざんら当時の著名な文化人と交遊し、90歳で没するまでの約30年間、花鳥風月や漢詩、書、作庭を楽しむ悠々自適の生涯を送りました。何ともうらやましい生き方です。詩仙堂の名は、中国の詩人36人を選んで狩野探幽たんゆうにその像を描かせ、部屋の四方の壁に掲げたことに由来するそうです。
 
薄茶と蘭の湯をもらう。蘭の湯は二三日まえ思いついてはじめたので、それを所望したのは私たちが最初とのこと。この庭に咲くのだそうで、生きいきとしてとても美しく可愛らしい。
 
山茶花の話をきき蘭の湯を賞味してるうち、どこかできまった間をおいて
カタン、カタン
と音がするのに気がついた。後で庭へおりたら繁みの蔭に添水そうず*がしかけてあるのだった。    

*ししおどしのこと

三尺ほどの竹筒に細い水が流れ込んでたまると傾いて小さな石臼を叩く。猪を追うとか。四十余年前のかわ* には臥猪ふすい* の床もひづめの跡もあったけれど、この節のさわがしい山には猪も棲みにくいだろう。山里らしい風趣をそえている。

横川* 比叡山延暦寺の最奥の地区。慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元などの名僧たちが修行に入った地。
臥猪* イノシシが茅や枯草などを敷いて寝ている所 

詩仙堂の庭には添水、いわゆる「ししおどし」が仕掛けられています。本来、ししおどしは田畑を荒らす鳥獣を追い払うための仕掛けです。真偽はわかりませんが、これを風流物として、初めて庭に取り入れたのが丈山であるといわれています。

詩仙堂のししおどし

実は、勘助は大学在学中に父を病で失い、家長を担うべき実兄も脳溢血で倒れたことで、学生の身でありながら、一家の大黒柱として家族を支えることが求められるようになりました。しかし、勘助は大学卒業後、実家には戻らず、各地を放浪するようになります。軍隊に入ったのも家から逃げるための方策でした。

野尻湖畔で『銀の匙』の前篇を執筆していた頃は、勘助が淋しさを抱えて苦しんでいた時代なのです。その時に思い出されたのは、優しい伯母に愛されて育った幸福な少年期のことだったのでしょう。『銀の匙』には、勘助のそんな辛い想いが詰まっているのです。

中勘助 写真提供=静岡市文化振

勘助は『銀の匙』の後篇にあたる部分を1914年の夏、比叡山の横川で書き上げます。詩仙堂の背後の山は比叡山から続く山並みの末端になります。ししおどしを聞いて、40年以上前、イノシシも出没する比叡山の堂にこもって小説に没頭していた孤独な若き日を思い出していたのかもしれません。

詩仙堂の庭には、春の明るい光が満ちていました。 

そこには沈丁花がかおり、紅つつじが咲き、木賊とくさがしげり、まんりょうが実を結んでいた。

顔のように見える老梅関付近の霧島キリシマ躑躅ツツジ

出典:中勘助『中勘助全集』「古国の詩」

文=藤岡比左志
写真提供=詩仙堂丈山寺

詩仙堂丈山寺
[住所]京都市左京区一乗寺門口町27番地
☎075-781-2954
[開門時間]午前9時~午後5時
(受付終了午後4時45分)
https://kyoto-shisendo.net/

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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