元祖リモートワーカーによる“山の暮らし”のすゝめ|『超約版 方丈記』(5)
山番の子と遊びまわる
名所巡りで足腰を鍛錬
~彼は十歳、これは六十~
私が方丈の庵を結んでいる日野山の麓には、もう一軒、柴でつくった粗末な庵がある。
山の手入れをしたり、不審者の侵入を見張ったりしている山の番人がそこに住んでいるのだ。
その番人には男の子が一人いて、時々、この庵を訪ねてくる。
忙しくないときは、その子を友として外へ遊びに出る。
その子は十歳で、私は六十歳。
年齢こそ大きく隔たってはいるが、互いを慰め合おうとする思いは共通している。
二人で茅の花芽を抜いたり、苔桃を採ったり、山芋のつるに生っている零余子を取ったり、芹を摘んだりして楽しい一日を過ごす。
山裾のたんぼへ行って、落ち穂を拾い集め、動物などを編みあげる穂組遊びに時の経つのを忘れたこともあった。
天気のよい、うららかな日には、一緒に峰まで登っていく。
峰に着いたら、都の方の空を遠望したり、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師を眺めたりする。「勝地は本来定まれる主なし。大よそ山は山を愛する人に属す」と『白氏文集』や『和漢朗詠集』にあるように、風光明媚な景勝地(勝地)に持ち主はいないというのが通り相場なので、心ゆくまで絶景を楽しんでも何の差しさわりもないのである。
山路を歩くことは、たとえ険しかろうと、煩わしいと思ったことは一度もない。遠くまで足を延ばしたいと思ったときは、峰づたいにどんどん歩いていって、炭山を越え、笠取を通って、あるときは岩間寺に詣でたり、またあるときは石山寺を拝んだりするのである。
そこから先は、粟津の原に分け入って、倭琴の曲「蝉歌」の名手だった蝉丸の翁の住居跡を訪ねて弔意を表したら、宇治川上流の田上河を渡って、伝説の歌人猿丸太夫の墓を訪ねる。
行きは、そういうコースをたどることが多い。帰路は、春なら桜狩りに興じ、秋なら紅葉狩りを楽しみ、春には蕨採りをし、秋には拾った木の実を土産がわりに持ち帰って、仏壇へ供えたりもするのである。
途中で人と出会うこともあり、会えば自然と言葉を交わす。
隠棲といっても、まったく誰とも接しないわけではないのだ。
感傷的になる日も幾たびか
山奥は怖いところではない
~老ひの寝覚の友~
静かに更けてゆく秋の夜長のことだった。
窓から見える月を眺めながら、ゆかりのあった故人をしのんでいると、山奥のどこか遠いところで物悲しげに鳴く猿の声が聞こえてきて、どうにも切なくなり、涙をこぼしたことがある。
夏の晴れた夜のことだった。
草むらでは集く虫の声が聞こえ、蛍が黄色い光を点滅させるが、その明かりを遠くで瞬く槇の島の篝火と見違えかけたこともある。
かと思えば、春先だったか、暁に降る雨音が木々の葉を吹き鳴らす嵐のように聞こえたこともあった。感傷的になっていたせいだろう。
そういうときには、山鳥がほろほろと鳴く声を耳にしても、父か母が呼んでいる声ではないかと思えてくることもある。
また、あるときには、峰に住む鹿が私を少しも警戒することなく近くまで寄ってくるのを見て、世間から遠ざかっている自分にハッと気づかされた宵もあったのである。
冬は、明け方になると、冷え込みが厳しくなる。
そんなときは、ぽつねんと火鉢のそばに座って、火箸を手に取るのが習慣になっている。
その火箸で何をするかといえば、昨晩、床につく前に灰をかぶせておいた埋め火を掻き起こすのである。そのうち、埋め火が息を吹き返し、やがて赤々とした火が熾ってくる。すると、何となくうれしくなり、老いた身の寝覚めの友のように感じる炭火の上に手をかざして、暖を取るのだ。
冬は、そういう明け方が多いのである。
人里離れた山奥は恐ろしいところだと思っている人は多い。
だが私は、一度たりとも恐ろしいと感じたことはない。
そういう安心な山を選んで住んでいるからこそ、梟の鳴き声にも憐れを催したりするのだが、ここに書いたことはほんの一端にすぎず、この山中で四季折々に見られる変化に富んだ景観の種が尽きることはまったくないのである。
私でさえそうなのだから、もっと深く思索したいと願い、もっと深くものごとを見知っている人なら、この山で楽しめる景観は無尽蔵。もっとほかにいっぱいあるといっておこう。
▼本書のお求めはこちら
<本書の目次>
第一章 天災と人災
第二章 方丈の庵に住む
第三章 いかに生きるべきか
「方丈記」原文(訳者校訂)
解説
よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。