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美しい町を磨き続ける、気立て良き人びと(若桜・若桜鉄道)|終着駅に行ってきました#2

かつては木材の集散地として栄えた町、若桜(わかさ)。栄華の時代の記憶をとどめる町には、清冽な小川と、丁寧に掃き清められた庭を持つ名刹、体験運転ができる蒸気機関車に、おいしいサンドイッチを出す喫茶店があって、町と鉄道を大事に守り続ける心温かい人たちがいました。〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

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「昔は、駅前に留められた貨車に、材木がたくさん積んでありました。それを蒸気機関車がひいて走るんです。もう随分前のことになりますね」

 ここは鳥取県若桜町。ぼくは、町中にあるお寺の本堂で、この町で生まれ育った18代目の住職に、若桜鉄道の話を聞いている。

 1603年に開基したという名刹は、若桜駅の周りをぶらぶら歩いていて見つけた。立派な構えに心が動き本堂に上がろうとしたら背後から声がかかった。

「そこは、土足禁止なんですよ」

 振り返ると、竹箒を手にした住職がこちらを見ていた。しどろもどろになって謝ると「札を出しておいたほうがいいんですよね」と続けた。にこやかな表情とやわらかな口調にトゲはない。二言三言かわし、誘われるままに本堂に入った。「ちょっとお待ち下さい」と前置きしてから焚いてくれた香が、心地よくたちこめる。

「今日はお祭りだったんですね。駅を見たら、蒸気機関車が走っていました」

「ああ、あのC12は圧縮空気で動かしているので、正確には蒸気機関車じゃないんです。でも人気でしてね、遠くから人がいらっしゃいますよ」

 住職は、専門用語を交えながら、看板車両のことを教えてくれた。その滑らかな口ぶりが、少し意外だった。

「ボランティアの方も多いんですってね。職員の方がそう言ってました」

「ええ、鉄道のイベントがあると、町の人たちが手伝うんです。観光客も増えましたからね」

 よそ者が来れば、町や鉄道は幾分かは潤うだろうが、住職としては寺の本堂に土足で上がり込むような輩も増えて迷惑に感じているはずだ。そう思って少し身を固くしたが、住職は笑顔のままだ。

 ぼくは少しうがった見方をしすぎたみたいだ。簡単にはぐらつかない積み重ねが、寺にも若桜の町にも、ある。住職からは、そんな余裕を感じた。

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 若桜町は、背後に広がる豊かな山林から産出される木材の集散地として、また姫路と鳥取を結ぶ街道の宿場町として、古くから栄えてきた。若桜駅には「昭和5年の若桜線の開通は町民たちの宿願であった」旨が記された看板が掲げられるが、実際、木材の運搬と人の往来、いずれの面においても鉄道の需要は大きかった。当初は、延伸して陰陽連絡線の一部とする計画もあったが「若桜の町の鉄道」という役割の方がはるかに大事だったようで、いつしか立ち消えとなった。

 日本の経済を支えてきた若桜線が、一転して廃止候補になったのは、国鉄時代末期のことだ。モータリゼーションの到来と国産木材の需要低下で、昭和40年代に貨物取り扱いが停止し、乗客も減少の一途をたどったことが原因だ。だが、沿線の自治体などが手を挙げる形で第三セクター化し、国鉄分割民営化直後の昭和62年、若桜鉄道として再出発を遂げた。

 ところが、沿線人口の減少は止まらず、乗客も右肩下がりが続く。ふたたび「廃止」のふた文字がちらつき始めた。すると、またもや沿線の若桜町と八頭(やず)町が一肌脱いだ。線路や駅の保守や整備を彼らが担当し「若桜鉄道」は列車の運行のみに専念する「上下分離方式」と呼ばれる運営方式に切り替えたのだ。平成21年のことだった。

 多少なりとも身軽になった若桜鉄道も、客を呼び込むための企画の立案と実現に本腰を入れた。中でも、保存していた蒸気機関車を圧縮空気によって動くように改造し、見るだけではなく体験運転までできるようにしたことで、全国的に大きな話題となった。

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 経営は決して楽観視できるものではない。

 若桜町の人口と若桜駅の1日平均乗降客数の推移を見てみると、第三セクター初期の平成13年はそれぞれ4,861人と443人に対し、上下分離化した後の平成27年は3,269人と276人。人口と乗降客数の減少率がほぼ同じである。つまり、沿線自治体の過疎化を止めない限り、鉄道利用客の減少も食い止められない。言うまでもなく、容易には実現できない。

 だが、数々の企画が注目を集め、住職の言葉通り、若桜を来訪する観光客は確実に増えている。その手応えがあるからこそ、自治体のみならず、住民も「自分たちの鉄道」という思いで、イベントの手伝いなどを続けていけるのだろう。

 * * *

 寺を辞して、再び町に出た。朝から降っていた雨脚は強くなり、晩秋の空はどんどん暗くなっていく。どこかに腰を落ち着けたかったが、飲食店そのものが見当たらなかった。

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 そもそも、若桜駅に降り立った時点で15時を過ぎていた。偶然開催されていたイベントもすでに終盤を迎えており、ぼくはかろうじて、車庫に安置される直前の蒸気機関車を目にすることができた。朝には岡山を出たのだが、山並みを仰ぎながら越えていく鈍行列車の旅が6時間以上かかったのが遅くなった理由だ。移動中は大してお腹にたまるものを口にしていない。そのことを思い出した途端、空腹を感じた。

 イベントが終わり閑散としている駅前に観光案内所があった。

「食事ができて、できればお酒も飲めるところ、ありませんか」

 受付に座っていた女性は、気立てのいい人だった。パンフレットをぱたぱためくり、いくつかの候補を挙げた上に「この町は店が閉まるのが早いから、開いているか確認します」と、電話までかけてくれた。その懸念は見事にあたり、おすすめの店はいずれも電話がつながらなかった。

「困ったなあ、どうしよう」

 そう口にしたのは、ぼくではなく彼女の方だった。

「あ、軽食しかないかもしれないけど、そこに喫茶店があります!」

 しばしの沈黙の後、思い出した、とばかりに弾んだ声を出した彼女は、傘もささずに表に出て、店がある方角を背伸びして指差してくれた。

 別行動を取っていたミハラさんに電話し、その店で合流することを約して、小走りで向かった。

 * * *

「ああ、大丈夫、できますよ」

 喫茶店の内装は、控えめな外観に反して、優雅なロココ調に統一されていた。サンドイッチとビールを注文すると、店内に響く明るい声で、女性の店主が心安く受けてくれた。

 ぼくとミハラさんは、安堵して思わず笑顔になった。

 ややあって持ってこられたサンドイッチは、ハムにレタスとキュウリ、そしてトマトというシンプルな具材に好感が持てる上品な味だった。うまいうまいと我が舌と腹が喜ぶのがわかる。ひと心地ついた気がして、今度は疲れた体に、ビールを染み渡らせているうちに、店主の恭子さんと会話を交わすようになった。

 この喫茶店は創業40数年。現在の地で開業させたのは義理の姉だったが、しばらくして恭子さんが受け継いだ。本業の傍ら厨房にも入ってくれていた夫が亡くなってからは、娘さんの手も借りつつ、ひとりで切り盛りしてきた。

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「私、50年前に鳥取からここに嫁いだのよ。来た頃は夜、眠れなくてね。町の中を流れる川の音が大きくて、気になって仕方なかったの。すぐ慣れたけど」

 はきはきとした語り口が耳に心地よい。

「昔は、駅前には日通があって、材木を積んだ貨車がたくさん留まっていたのよ。そう、住職さんにも聞いた? あの頃は、この通りも飲み屋さんばっかり並んでいてね。鳥取からわざわざ遊びに来る人もいて、一晩中賑やかだったの」

 当時の町の人口は約8500人、駅の1日平均利用客数は約1800人。いずれも現在とは比べものにならない。人も物も、若桜の町と駅には溢れかえっていた。

「材木がなくなって町も寂しくなったね。集積所の跡地には病院が建って便利になったけど」

 カウンターやボックスシートに座った年輩の常連客たちが、そうだね、とうなずく。気づけば彼女の話に、店にいる皆が耳を傾けていた。

 常連客も交えての若桜の話がひと段落すると、ひとりが店を出る、と合図した。恭子さんは、足の弱った彼にさりげなく手を添え、店の外まで連れて行った。

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「若い人たちはどうしているんですか?」

 店に戻りコーヒーカップを片付けだした彼女に尋ねた。

「鳥取や都会に出て行った人が多いわね。仕事を見つけて。そのまま家を建てて、親を呼ぶ人も結構いてね。若桜から人が減っていくわけよ」

「私は若桜の人と結婚してここに残ったけどね」

 カウンターを拭いていた娘さんが合いの手を入れた。今日はイベントがあって客も多いだろうと、母親の店の手伝いに来たそうだ。

 ふたりに若桜の町について、聞いてみた。

「いい街だと思うわよ。若桜にはなんでもあるから」

 恭子さんが、まず答えた。

「何よりね、水がおいしいの。この店にもね、遠くからコーヒーを飲みにきてくださる方もいるの。『いい味だ。水が違う』ってね」

 若桜の自然は豊かだ。

「でも冬は寒いわよ。昔は、雪も深くて、家の2階から出入りするくらいだったの」

「これ、見てくださいよ。今でも、冬の若桜は雪が積もるんです」

 今度は娘さんが、スマートフォンの画面を見せてくれた。快晴の空のもとに広がる雪景色の中、鉄路がまっすぐ伸びている。

「私の子どもが、里帰りした時に撮影したの」

「お子さん、どこにお住まいなんですか」

「今は、神戸に住んでいるの。帰って来ると『若桜ってきれいだよね』って、写真を撮るんですよ。いっつも」

 若桜で生まれ育った彼女は、嬉しそうにそう話した。

 疲れたからか、瓶ビール2本目で、早くも酔いが回ってきた。気がつくとミハラさんが、鳥取の方言についてふたりと楽しそうに話をしている。

 若桜の町は、美しい。

 不意にそう感じた。これといった名所があるわけではない。でも、町中を清冽な川が流れ、イベントがある日には蒸気機関車が走り、丁寧に掃き清められた庭を持つ名刹があり、おいしいサンドイッチとコーヒーを出す喫茶店がある。恭子さんの言葉を借りれば、ここにはなんだってある。人々に大切にされてきた、きれいなものだったら、なんでも。

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 ただ、その美しさは、いつか滅びるものだ。

 日本創生会議による予想調査では、若桜町の人口は減少を続け、2040年には約1500人。20代、30代の女性がわずか60人弱になるという。このまま、若い人が都会へ出て行き、出生数が低いまま推移していけば、若桜町は、消滅する可能性が高い。前述したように、若桜鉄道もまた、同じ運命をたどることになるはずだ。

 もちろん、自治体だって人口減を食い止める策をうちだしている。

 だが、この町で会った人たちは、それらが緩やかに消えゆく途上にあることを、どこかで受け入れた上で、自足し、今あるものを磨き続けているように見える。あたかも名刹が土地に根ざした人々の墓を守り続けるかのように、記憶を美しくとどめ、いつでも次に受け渡せるようにだけはしながら。思いある人たちが磨くから、町はさらに美しく輝く。

 喫茶店もまた、恭子さんと娘さんによって、隅々まできれいに磨かれていた。

 だから、居心地がいいんだな。

 酔った頭で、そう納得した。ミハラさんは、えびす顔でまだ話を続けている。

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 * * *

「さくら1号」と車体に書かれたディーゼルカーに乗って30分、ぼくたちはJRとの接続駅、郡家(こおげ)に戻ってきた。

 ミハラさんは「寄り道しながら帰る」と告げると、ちょうどやって来た鳥取方面に行く列車に乗り込んで行った。ぼくは、ひとり雨ふる郡家に取り残される格好になった。

 駅は静まり返っていた。

 行きに若桜へと向かう際、この駅での待ち時間を利用して、若桜鉄道の缶バッジを購入した。切符とグッズを販売する若い女性もまた、気立てのいい人だった。若桜に行くことを告げると、奥からパンフレットを取り出し、ページをめくりながら見どころを一所懸命に教えてくれた。

 意地悪な質問をしたくなったのは、うわべだけの名所案内を聞くことに、かすかな抵抗を感じたからだろうか。

「赤字でも鉄道会社を続けるのって、なんででしょうか」

 言ってすぐに後悔した。だが、嫌な表情ひとつ見せずに、彼女は考えだした。

「赤字だからってなくしちゃうと、線路だけじゃなくて、今までつながっていたいろんなものがなくなってしまう気がするんです」

 一言ずつ確かめるようにそう言うと、缶バッジの包みを手渡してくれた。

 若桜鉄道は、美しく磨かれた町とぼくたちをつなぐ、ただ一つの鉄路だ。折々の人々の思いとともに歴史を重ねてきた、その鉄路を、若桜の人たちは「かけがえのないもの」として、今も大事に磨き上げているのだ。

 今度はうまい水で淹れたコーヒーを飲みに来よう。夜更けのホームのベンチで、ぼくはそう心に決めた。

 彼方からディーゼルエンジンの轟音とともに2条のヘッドライトが迫ってきた。ぼくは酔いの残る体に弾みをつけて立ち上がり、山をいくつか越えて都市へと戻る列車に乗り込む準備を始めた。

文=服部夏生 写真=三原久明

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【単行本発売のお知らせ】
本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年5月18日に天夢人社より刊行されます。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのちに、フリーランスの編集&ライターに。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。他、各紙誌にて「職人」「伝統」「東京」といったテーマで連載等も。趣味は、英才教育(!?)の結果みごと「鉄」となった長男との鈍行列車の旅。
三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2017年10月に取材されたものです。

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