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哀愁の街を通りすぎる人と、とどまる人(三角・JR三角線)|終着駅に行ってきました#10

明治時代の国策に基づいて開港した三角港に、直結する駅として作られた終着駅、三角。時は流れ、港の規模も小さくなった今も、観光地・天草への玄関口として、地元の足として大切に使われています。穏やかに広がる海でとれた魚をいただきながら、中年男性ふたり組の夜は、静かに流れていきます。〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

 春の光を浴びた海が、突然、車窓に広がった。向かいの席に靴を脱いで座っている小さな姉妹が歓声をあげる中、ディーゼルカーは海辺を快走する。煙をたなびかせる雲仙岳が姿を見せてからしばし。列車は終着駅の三角に滑り込んだ。熊本駅から約1時間の旅である。

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 レトロモダンな駅舎を出ると、芝生の広場とピラミッド型の建物が目につく。その整備された景色は、駅前の街道沿いの古めかしい建物群と、アンバランスながらも調和を見せている。

 海猫が悠然と飛ぶ中、線路沿いに歩いてみると、程なくして、海と山に迫られる格好で、家並みが途切れた。途中の大きな踏切を渡った先には、ショッピングモールがあり、山麓の宇城市役所の支所と図書館で、街並みはいったん途切れる。徒歩でゆるゆると歩いて30分程度のコンパクトさである。

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 ひと通り回ると、手持ちぶさたになった。駅前の喫茶店に入ろうと思ったが、17時のチャイムとともに閉じてしまった。気になっていた移動販売のコーヒー屋もいなくなってしまった。広場でぼんやり過ごすのも悪くなさそうだったが、夕暮れの写真を撮りたい、というミハラさんにくっついて、世界遺産となっている三角西港にしこうまでタクシーで行ってみることにした。

「今の三角港は、我々、東港って呼んでいるんです。もともとは、西港がメインでしたからね」

 生まれも育ちも三角、勤続半世紀というタクシーの運転手は、何度も語ってきたのであろう、街の歴史をすらすらと話してくれた。

 三角駅が現在の地に開業したのは1903年。明治政府の殖産興業政策に基づいて築かれた当時の三角港(現在の西港だ)に連絡する重要な駅として作られたが、肝心の西港までの距離は数kmも離れていた。あまりにも陸地が狭く、西港周辺に鉄道用の敷地を確保できなかったのである。やむなく、「赤岩の山を削り、仙崎岬を切り崩して、海を埋め」(『三角町史』より)、西港に最も近い場所に、どうにか敷地を確保して作ったのが三角駅となる。陸路もあるにはあったが、通りにくいため、駅前から西港までの連絡船の「渡し場」をこしらえた。

 現在の三角港の前身となる渡し場は、際崎きわざき港と名付けられた。鉄道があるという便利さで、次第に規模を大きくしていく。製紙用に運ばれた樺太産木材の貯木場が設けられ、対岸の島原などを結ぶ連絡船も発着するようになった。西港が担っていた機能が移る形で、修築も進み、昭和に入った頃には、駅前には建物がところ狭しと並ぶようになった。

「昔は、駅にも貨物線がありました。貯炭場もあって。そこに蒸気機関車が入ってきて、人も大勢いて賑やかでした。タクシーの仕事を始めた頃も、まだ活気がありましたよ。26台あったと思うんだけど、それがフル稼働でした。今は数台になっちゃった上に、暇ですもん。やっぱり『五橋ごきょう』ができたからねえ」

 人の良さそうな運転手氏が仕事を始める少し前の1966年に、天草五橋が開通した。天草諸島と九州本土を橋で繋ぐことは、移動を船に頼るしかなかった天草の人々の悲願だった。皆が歓喜にわく一方で、三角港はその需要を大幅に減らすこととなった。時を同じくして八代港が開港することで、それまでの県下唯一の貿易港としての役割も、変化を余儀なくされた。三角駅も貨物線がなくなり、利用客はピークだった65年度の約1/6にまで減少した。

「どんどん寂しくなっていきます。もともと、通りすぎる人たちのための街ですからね。観光だって三角には、今お連れする西港くらいしかない」

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 駅からほんの数分の道のりだったが、到着した際には、100年単位の旅をしてきたような気分になっていた。

 西港の風景は、ほんのりと暖かった。明治時代の石積みが残る岸では、釣り人たちが竿をたらし、若い女性や家族づれが夕焼け空をバックに自撮りにいそしむ。

 駐車場でだべっていた青年たちは、メンバーがそろうと昭和を感じさせる改造バイクにまたがって走り去る。やがてその爆音が天草五橋の1号橋である天門橋から鳴り響いてくる。バリバリバリとどこかユーモラスな音を聞いて、女性たちがおかしそうに笑う。そこに老婆の手を引いた孫と思しき青年が、ゆるゆると歩いてくる。

 とろりとした水面に、その存在を精一杯主張するように西日をあてながら、太陽が沈んでいく。

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 いい街じゃないか。ひと目で三角が好きになるような、夕暮れだった。

 * * *
 
「うーん」

 地元のうまい店はタクシーで聞け、という世の鉄則にならって「ちょっといい感じのお店で飲みたいんですが」と尋ねると、帰りのタクシーの運転手は、真剣に悩み出した。

「三角線で来られたんだったら、熊本にお戻りになった方がいいかもしれません」

 ものすごく申し訳なさそうに話す運転手氏もまた、生まれも育ちも三角だった。

「観光客は、ほとんど天草に行かれるんです。ここには人を留めておくものはない」

 行きの運転手氏と同じく、自虐的にわが街を語る運転手氏は、寂しいんですけどね、と空き家が目立つ古い商店街を通り抜けて、駅までぼくたちを運んでくれた。

「踏切を渡ったところに、お店あったような気がするんですよ」

 そのまま熊本市に引き返すのは、あまりにも残念だった。昼に目星をつけた一角を目指すと、居酒屋の看板にあかりが灯っていた。どんな様子か外からはうかがい知れないが、観光客向けの店ではないことだけははっきりと分かる。他の選択肢はないことは、午後の散策と運転手氏のコメントから、ほぼ間違いない。ままよと戸を開けた。

「いらっしゃい」

 気持ちいい声で迎えられた。中を見ると、大将と女性店員が笑顔でこちらを見ている。店の雰囲気はあたりだ。味への期待が否応もなく高まった。

 ぼくたちは口開けの客だった。飲むものを頼んでから、品書きを見渡した。

「ヒラってなんですか?」

「うーん」

 飲み物をこちらに運んできたままの姿勢で、女性店員が固まった。元は定食屋だったと思しき広々としたオープンキッチンで下ごしらえをしていた大将が助け舟を出した。

「ひらべったい魚で。でもヒラメじゃないんですよ。ちょっと小骨が多くてね。でもハモっぽくもなくて。なんて言えばいいのかな」

 なかなか説明しづらい魚のようだ。

「ここらへんで獲れるんですか?」

「ええ。三角で獲れた魚です」

「じゃあ、その刺身を2人前お願いします。ぼくたち、初三角なんですよ。できれば地元のおすすめをいただきたいんです」

「だったら、コノシロとかどうですか」

「じゃあそれも2人前で。あと地元のものを中心にいくつかお刺身、お願いできますか」

 ヒラは、いわゆる青魚だった。皮も残しつつ短冊に切ったものをまとめて醤油にまぶして食べる。小骨が残る食感と滋味ある風味のコントラストがいい。ネギをまぶして食べるコノシロはさらによかった。コリコリした食感とさっぱりとした風味が、九州の甘い醤油とよく合う。

「うまいですね」

「嬉しいな」

「コノシロってコハダが大きくなった魚ですよね。刺身は初めて食べました」

「東京のお寿司屋さんで出ているコハダは、三角ものが多いみたいですよ。でも刺身は、新鮮じゃないと食べられないですから」

 笑顔になった大将は、今日3人目の「三角生まれの三角育ち」だった。タクシーのふたりと異なり、関西で暮らした時期もあったという。だが、最終的に地元に戻り、店を開いた。

「全くの素人で始めたんです。もともと公務員だったんですけどね」

 仕事を早期退職しての開業、いわゆる脱サラである。思い切った決断には理由があった。

「三角に戻ってきたら、街がずいぶん寂しくなっていたんですよ。1万2千人いたのが、今では7千人ちょっとですもん。店の前の通りだって昔はもっと賑わっていた。なのに、この店舗もずっと空き家になったままだったんです。これは俺がどげんかせんといかんって」

 最後はかつてのタレント知事の口ぶりを真似て、照れを笑いに紛らわした。

 もともと料理は好きだった。対岸の戸馳島とばせじまへの架橋工事の関係者が大勢来るなどの幸運にも恵まれて、ここまでやってくることができた。コロナ禍で客足は大幅に落ちたが、こればかりは仕方ない。そんな話をしているところに常連らしき年配の男性が入ってきた。タコの刺身を注文すると、焼酎のロックをうまそうに飲む。やがて、大将との会話に花が咲き出した。

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 * * *

「ずいぶんいろんな終着駅を回ったね」

 手酌で瓶ビールを注ぎながら、ミハラさんが話しかけてきた。

「そうですね。北海道、東北、関東、北陸…」

「九州でひと通り回ったことになるのか」

「時間かかりましたけどね。ちょうど4年」

 隣の常連氏は、大将がゴルフに付き合ってくれないと嘆き出した。店員が注文の品を運びながら、まあまあとなだめる。いつものやりとりのようで、大将もすいませんと謝りつつ笑っている。

「君は、いろんなものをやめてきたね」

 不意にミハラさんが言った。

 出会った20代の頃から、ミハラさんには愚痴を含めて様々な話を聞いてもらってきた。こちらが言わない限りプライベートに踏み込んでこないという一貫した姿勢に、全面的に甘えてきたのである。昔は、よくふたりで酒場でだべっていたが(数多くの魅力的な企画が生み出され、そのまま立ち消えとなっていった)、歳を取るにつれ飲む回数も減り、今では終着駅にいくとき以外に会うことは滅多にない。

「そうですね、その度に話、聞いてもらいました。面倒だったでしょ」

「別にいいよ」

 会社勤めや東京暮らしなど、この4年でやめてきたものは確かに多かった。悩んだ末のことも、直感的に決めたこともあった。ただいずれも仕方のなさが根底にあった。

「歳を取ると、いろいろ諦めていくしかないですから」

「うん」

 ミハラさんが諦めたものはなんだろうと思った。だが、彼はそれ以上語ることなく、ビールに口をつけた。

 三角で会った人たちは、皆、街の衰退にとどまらず、ぼくやミハラさんと同じく「何か」を諦めてきた人たちだったんだな。不意にそう気づいた。振り返れば、今まで訪れた終着駅で出会ってきた人たちもまた、何かを諦めてきていた。歳を重ねて何かを失っていくことは、当たり前のことなのかもしれない。だが、それを受け入れ、できることを探し、今あるものを慈しみながら暮らす人たちの話を、ぼくは飽きることなく、ずっと聞いてきた。彼らの日常は、淡々としたものだ。そこにクライマックスは乏しいかもしれない。だが、ぼくは、穏やかに移り変わっていく彼らのありようを美しいと感じ、その人生を、想像してきた。そうすることは、自分自身のこれまでとこれからに、エールを送り続けることでもあった。

 終着駅をめぐる旅に誘ったときに、「そこで一杯飲もうよ」と提案してきたミハラさんは、いったん自分ごととして受け入れたものに関しては、何ができるかを徹底して考え、相方への苦言も辞さない人物である。その行動原則のすべてが「自らの作品のため」という真剣さを持つ彼とでなければ、人の営みに普遍する「良き部分」の輪郭をなぞるような、茫漠としたこの旅は成立しなかっただろう。

「ミハラさんとこれてよかったよ」

 夜の三角線を撮るために中座するミハラさんに、そう声をかけると、不意をつかれたような顔でうなずいた。

 * * *

 翌朝、東京へ戻るミハラさんを見送り、ひとりレンタカーを借りた。天草五橋を渡ってみてから三角に引き返し、街の背後にある丘陵地を登っていった。

 昨夜の大将の生家は、これらの丘の一角で、三角の地場産業でもあった養蚕とさつま芋による製糖を生業としていたという。

「その頃の畑は、今はほとんどみかん畑になりました。海からの風があたって、甘みが出るんですって」

 適当にあたりをつけて走っていくと、どんどん道が狭くなっていった。車1台がどうにか通れる山道の上にたどり着くと、そこには小さな寺があった。車を降りて、つつましやかな参道を上がって境内に入った。大きな桜の木がまず目に入った、葉桜の向こうに麓までみかん畑が続き、その先に、海と島々が、見渡す限り広がっていた。

「いい景色なんですよ」

 大将の声が蘇った。その美しさは、どこか哀しさを感じさせるものだった。三角は「通りすぎる人たち」の街だと運転手氏たちは言う。その、通りすぎ、旅立つ人たちに、失っていくものの大きさを感じさせるような残酷なまでの優しさを、島々が連なる景色はたたえている。

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 車を返却すると、三角線の列車の出発時間が迫っていた。急いで切符を購入してから、駅前に停められた移動販売車でコーヒーを一杯もらった。

「来た時から気になっていたんです」

 コーヒーを淹れる若い店主にそう話しかけると、笑顔になった。コーヒー屋を始めてまもないという。

「妻の実家が対岸の戸馳島なんです。そこの景色が気にいって、都会から移住したんです。三角、のんびりしていて、いいところですよね」

 古めかしいディーゼルカーに乗り込んで、手渡されたコーヒーを飲んだ。浅煎りならではの穏やかさと、それでいて苦味と酸味がきちんと感じられる芯のある風味は、舌に心地よかった。

 まるで三角の街みたいじゃないか。そうひとりごちると、エンジンを唸らせて、列車が出発した。

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文=服部夏生 写真=三原久明

【お知らせ】本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年に天夢人社より刊行されています。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのち独立。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。「編集者&ライター。ときどき作家」として、あらゆる分野の「いいもの」を、文字を通して紹介する日々。「鉄」の長男が春から親元を離れ、彼との鈍行列車の旅がしにくくなったことが目下の悩み。
三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2021年4月に取材されたものです。

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