見出し画像

波乱に満ちた親鸞の人生|齋藤孝『図解 歎異抄』より(2)

歎異抄たんにしょう』は、司馬遼太郎や吉本隆明、西田幾多郎などの知識人にも多大な影響を与えた宗教書です。中世最大の宗教者であった親鸞しんらんの生の言葉を聞いていた弟子が、親鸞没後の世界にはびこる「異説」を「なげき」、正しい言葉を伝えていこうというのが基本スタイル。時代を超えた命題を提示し、ずっと考え続けられる、奥深い魅力を持っています。古今東西の多数の名著を解読してきた齋藤孝先生の新刊図解 歎異抄から、そのエッセンスをお届けします。今回は、波乱に満ちた親鸞の人生を振り返ります。

『図解 歎異抄』齋藤孝 著(ウェッジ)
2022年12月20日発売

中級貴族の皇太后宮大進おおきさいのみやだいしん(皇太后宮に関する事務をつかさどった官吏)、日野ひの有範ありのりの息子として生まれた親鸞は、母を早くに亡くしており、9歳で比叡山に上って慈円という僧の弟子になりました。そして建仁元年(1201)、29歳のときに比叡山を下りて、法然の門に入ります。つまり、9歳から20年間、ひたすら日本最高峰の仏教の聖地で修行したのです。

親鸞は、すでに比叡山時代に、源信などが説いた、浄土に往生してさとりを得るという教えに、親しんでいたと考えられます。

しかし比叡山の僧たちを見ると、上層の者たちは加持祈禱によって、皇族や貴族たちに取り入って贅沢をし、下層の者たちは徒党を組んで強訴するなど、僧兵になって暴れている。僧たちが世俗と癒着し、偽善に染まっている、と親鸞は感じたのでしょう。

比叡山ではどうしてもさとりを得られず、親鸞は聖徳太子が建てたといわれる六角堂に籠っていたのです。そのとき夢に現れた聖徳太子の導きにより、法然(1133-1212)のもとを訪ねることになります。こうして真宗念仏の教えに踏み切った親鸞は、このとき29歳。師の法然は69歳でした。

法然上人には弟子がたくさんいて、親鸞一人だけが特別に優遇されたわけでもなく、法然が亡くなったときに、最重要人物であったわけでもありません。しかし、親鸞のように学問を積んできた人が来てくれると、話しやすいということもあって、法然は喜んだと思うのですね。

法然の著した『選択せんじゃく本願念仏集』を書き写すことも、若い親鸞に許しています。

当時、極楽浄土に行くためには、二つの方法がありました。その一つは心をこらして阿弥陀仏と極楽浄土を思い描く「定善じょうぜん」で、もう一つは、心は散り乱れたままで、寺に寄付をしたり、世間的な善行を行うという「散善さんぜん」です。

しかし、この二つの善は、ごくふつうの人たちには、実行するヒマも余力もありませんから、法然はそのかわりに、口で「南無阿弥陀仏」ととなえることで極楽浄土に往生できる、という一つの行いに絞り込んだのです。それが法然の教えの画期的なところです。

親鸞は、それまでの比叡山での修行では、戒律を守ることもできないし、安心を得ることもできていない、という悪の自覚に苦しめられていました。しかし、法然と出会ったことによって、大きな宗教的な体験をするのです。「救われた!」という感じがしたのでしょうね。そこからさらに進んで「他力」の考え方をきわめ、また公然と肉食妻帯の僧にもなり、いわば矛盾を抱え込んだ「煩悩具足の凡人」のまま生きていく道を得たわけです。

親鸞が35歳のとき、法然の思想に危険を感じた旧仏教側の企みによって、法然が流罪になります。弟子4人が死罪、師弟8人が流罪という厳しい裁きです。法然の教えが広まれば、それまでの仏教は要らなくなってしまうと恐れた旧仏教側は、浄土宗弾圧の口実を探していたのでしょう。そのころ、真偽のほどはわかりませんが、法然の弟子が、後鳥羽上皇に仕える侍女と何かあったという噂なども立って、これが格好の口実となったようです。

法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。越後で親鸞は恵信尼えしんににという妻を得て、子どもをもうけています。流罪生活4年で赦免された後は、常陸国ひたちのくにの稲田(茨城県笠間市)に落ち着いて、そこを根拠地にし、40歳ごろから60歳を超えるまでの20年ほどのあいだ、東国(関東)で布教して過ごします(法然は4年後に京都に戻ることができました)。

『歎異抄』の第十三条に、「魚を捕ったり、獣を狩ったり、田を耕したりする人たちも同じことだ」という文章が出てきますが、これは東国の人たちのイメージなのでは、と思います。その後、63歳のころに故郷の京都へ帰り、『教行きょうぎょう信証しんしょう』を著しました。ところが、東国から京都に親鸞が移ると、師がいなくなったため、弟子たちのあいだにいろいろ誤った信心が生まれてしまい、東国の人たちは動揺しはじめました。

特に問題なのが「本願ぼこり」といって、「悪人正機しょうき説」を誤解した人たちが、「むしろ悪を行ったほうが、救われやすい。積極的に悪をしてもよいのだ」と、「造悪ぞうあく」、「悪をあえて造っていく」という解釈が広まってしまったのです。『歎異抄』では、このことを厳しく注意しています。

こうした東国の弟子たちの動揺を抑えるため、親鸞は息子である僧の善鸞ぜんらんを身代わりとして、東国に送りました。ところが、そこで善鸞は誤った教えを説いたのです。

善鸞は東国の人たちに向かって、「父親鸞の秘密の法文を自分は授かってきた。それによれば、あなたたちの念仏は、間違っている」といったので、当然反発がおき、軋轢も生まれて、かえって混乱がひどくなってしまいました。そのうえ善鸞は、そうした「間違った」念仏の考え方を一掃するために、鎌倉幕府の権力を借りようとまでしたのです。

当時84歳になっていた親鸞は、自分の息子の善鸞がかえって混乱を大きくさせている、という真相を知って、善鸞を義絶しました。親子の縁を切り、後始末を東国の人たちに頼んだのです。晩年の親鸞は、この事件でずいぶん苦しんだということです。

その後も著作などを続けた親鸞は、弘長2年(1262)、90歳で亡くなっています。当時としてはたいへんな長生きですね。法然も長寿をまっとうして79歳で亡くなりました。

波乱に満ちた親鸞の人生、いかがでしたでしょうか。齋藤孝先生の新刊『図解 歎異抄』では、原文と抄訳を掲げたうえで、その内容を図解とともにわかりやすく解説しています。この機会に、多くの知識人に絶大な影響を与えてきた『歎異抄』の考え方や精神のあり方を吸収してみてはいかがでしょうか?

▼本書のお求めはこちらから

齋藤 孝(さいとう・たかし)
明治大学文学部教授。1960 年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション論。著書多数。新刊に『書ける人だけが手にするもの』(SB新書)、『60代の論語 人生を豊かにする100 の言葉』(祥伝社新書)がある。

◉齋藤孝先生の大好評「図解シリーズ」

◉こちらもおすすめ


よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。