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108 感想の意味

それって個人の感想ですよね

 感想の値打ちがどんどん下がっている。
 まるで鼻をかんだあとのティッシュのように。
 個人として、自分が感じたことを述べる。世の中では、それを認めない、あるいはまったく無価値に思っている人が増えている気がする(という私の個人の感想だ)。
 しかし、そもそも、意見や論調と違い、感想だからこそ意味を持つことも世の中にはたくさんあっていい。
 読書の感想。映画鑑賞の感想。新曲を聴いた感想。食べてみた感想。やってみた感想。会ってみた感想。話してみた感想。
 なぜ、感想があるか。
 それは人間は、外部から自分に降りかかってきた物事を選択するクセがあるからだ。
 傘を持って来なかったのに雨が降ってきたら、なにかひと言、言いたくなる。自分の迂闊さか。あるいは出がけの天気予報のミスか。あるいは自分に傘を持たせないように働きかけた誰かの陰謀か。
 感じたことを述べてみて、はじめてわかることも多い。
 言葉って、こうして文字で記すときと、口から(あるいは手話とか身振りとか)発するときでは、意味が変わっている。
A「大河ドラマ見た?」
B「一応、見たよ」
A「視聴率がいまいちだったらしいけど」
B「よくわからなかったな」
A「おもしろかった?」
B「よくわからない」
 こんなとりとめのない会話の中にも、なにかしら、真実は含まれている。だって、頭に存在している「大河ドラマの感想」も、口に出してみると、なんだかニュアンスが変わる。
「おもしろかった」と言えばいいのだが、「よくわからなかった」としてしまう。これは、「大河ドラマ見た?」と言ってきた相手(A)が、果たしてあのドラマの賛成者なのか反対者なのかわからないので、下手なことは言えないぞ、と感じているからだ。「よくわからなかった」は、ギリギリセーフな、どっちつかずの感想だと判断したに違いない。
 なにしろ、「わかる」「わからない」は「おもしろい」「つまらない」よりはずっと曖昧でテキトーそのものだからだ。
「大河ドラマ、おもしろかったなあ。見た?」
 と聞かれていたら、もう少し違う感想を述べたかもしれない。相手はあのドラマがおもしろかったんだ、ふーん、自分としてはそうでもなかったけど、でも、相手がおもしろいというのを否定するほど強い印象はなかったから、「ま、そこそこおもしろかったかな」ぐらいの返事はしたかもしれない。
 ところが相手は紫式部とか中世の日本にやたら詳しくて、「時代考証としてはどうかな」とか面倒なことを言い出すリスクもあるので、ここはどっちつかずでいたいってこともあるだろう。あるいは「ぜんぜんおもしろくない」と完全否定派だったら、こっちの感想を含めてすべてを否定されていく怖れもあるので、そこまで突っ込んだ話はしたくない、と考えていることもあるだろう。

感想を言えば面倒が起こる

 もしも、下手に感想を述べたら、そこから面倒が起こるかもしれない。だったら、言わない方がいい。それがオトナの判断ではないか。そもそも、そんなことに関わっていたら時間がいくらあっても足りないぞ、だから感想は言わないのだ、とするのもありといえばありだろう。
 こうして文字で記していれば、とりあえずとりとめのない話でありながらも、最後にはそれなりにまとまっていくかもしれない期待感がある。書いている側としては少なくとも、あと六百文字ぐらいで、けっこうそれなりにまとまった感想として記述できるかもしれないと期待している。
 そういうことは、書く前に考えろと言われそうだが、そんなことを考えている自分の方がどうも気に入らないので、アドリブで書きながら考えていった方が楽しいから。もちろん、その結果、だらしのない終わり方になってしまうこともある。
 しかし、「おもしろかった!」でも「つまらなかった!」でも、感想をそのまま記せばそこで終わりになるようで、同時に、むしろ面倒なことが起こるとすれば、記さない方がいい。
 あとで、「なんであんなことを書いてしまったんだろう」と残念に思うぐらいなら。

大河ドラマはおもしろかったか?

「今度の大河ドラマ『光る君へ』は、まだ1話しか見ていないけど、どうやらドロドロ系なのかもしれないぞ」
「うん。まさか、初回でいきなりあれはね、驚いた」
「酷い話だけど、恨みとか怨嗟とか嫉妬とか、生き辛さとかがテーマなのかもしれないよね。だったらおもしろいかな」
「えー、そういうの苦手だなあ」
「でもさ、和歌が盛んな頃だし、エリートはみな仏教に夢中だった時代でもあって、いま以上に『心』を大事にしていたかもしれないよ。和歌で気持ちを伝え合う時代なんて、考えてみたら驚天動地だよ」
「週刊誌にLINEのスクショが掲載されて、どんな会話をしていたのかって証拠になったりするいまの方が驚天動地じゃない?」
「なるほど確かに、当時の和歌はまさにLINEだよね」
 ネットで調べたら、「源氏物語」には800近い和歌が盛り込まれていて、人物描写、心境の代弁、さらに物語の進行に活用されていたという。和歌にこめられた気持ちを理解しないと読み進められない。当時の読み手たちにとってはそれがいかにもおもしろかったのだろうが、現代人からすれば暗号を解読するような面倒さだろう。
 まあ、これだけ書いておけば、もはやおもしろいのか、つまらないのかなんてことはどうでもよくなるだろう。
 自分の感想は、心の内にひっそりとしまい込むのである。
 
 

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