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190 終わり方のいろいろ

同窓会的な終わり方

 朝ドラ「ブギウギ」の最終回を見た。最初見ていたが、途中で見なくなって、ときどき見るとはなしに見つつ、最終回を迎えた。ぜんぜん、いい視聴者ではない。そして、最終回は朝ドラらしい同窓会的な終わり方だった。これまで登場した主な人たちや縁のある人たちが画面に横溢する。いわゆるカメオ出演などもあってにぎやかだ。全部観ていないのに「懐かしい」と思えるし、ホッとする。
 あー、終わったなあ。そうちゃんと思えるかどうか。
 しかし、必ずしも終わりにそれを期待する必要はない。モヤモヤした終わり方でも実はぜんぜん構わない。
 えー、これで終わり? と思ったところで、そこで終わってしまうのだからしょうがないではないか。
 ドラマや作品は人為的に作られるものだからこそ、きっちり終わらせないといけないのだ、と考える人もいるかもしれない。
 だけど、そんなことはない。

劇的な幕切れ

 よく「劇的な幕切れ」といった使われ方をする。これは人為的に作られていない、誰かがストーリーを描いていない場合に、思いがけなく「ドラマチック」になってしまうことだろう。スポーツの終わり方。野球のサヨナラ安打はその典型だろう。
 とはいえ、そうした劇的な幕切れがかなりの確率で起こり得るようにルールが作られているとすれば、それもまた人為的な、作為的な終わり方の一種と言える。
 こうなると、人為的なストーリーにおいては、「必ず」劇的な幕切れでなければならなくなる。ところが、人間というのはおもしろいもので、「これは劇的なエンディングになりそうだ」と予感し、推理しながら見始めることになって、ちっとも楽しめなくなることもある。
「最後、どうなるか見たいから見ているけど」の「けど」である。どうなるか知りたいだけなのだ。そのプロセスはどうでもよく、むしろできることなら見ないで済ませたいのである。ミステリに盛り込まれているのは「謎」で、その謎がすべて解き明かされるのがエンディングであるはずだ。
 ところが「どうせ最後に『犯人はお前だ!』で終わるんだろう」と思われるのを避けるために、さまざまな手法を駆使することになる。たとえば恋愛を絡めて、犯人捜しの終わりとは別に恋愛の終わりを設定すると、「犯人はお前だ! だけどおれはフラれてしまった!」となる。つまり、終わり感を最後のところでダダッと複数提供しちゃう。その中で、受け止める側の好きな部分を印象として残してくれればいい。

2段階、3段階の終わり方

 ドラマ「不適切にもほどがある!」は放送中にも、かなり話題になっていた。おもしろいのだが私の好きじゃないタイムトラベルものだから、終わらせ方が難しくなるだろうなと推測していた。
 そして、めでたく最終回。テーマの「不適切」に対しては、「寛容」を主要登場人物たちで歌いあげてきっちり終わらせる。しかしドラマはそれで終わらない。恋愛のはじまりという終わりがひとつ。もしかするとこのドラマでぜんぜん得をしていない唯一の存在である主題歌を作ったCreepy Nutsをちゃんと登場させてあげている。さらにタイムトンネルの登場というオチ(一応、伏線はあった)もつく。ダダダッとさまざまな「エンディング」がミルフィーユになっている。
 このため、私としてはとくに素敵な終わり方とは感じなかったものの、「楽しませてくれてありがとう」の気持ちがこみ上げる。ここまで詰め込みながらもきちんと描いて、役者の魅力を引き出し、楽しませてくれたのであるから、拍手するしかない。
 もちろん、数日後(いまである)、なんとなく腑に落ちない自分がいる。「あれは終わったんだよね」と自分で確認しないわけにはいかない。終わったのだ。それにたぶん、この設定だと続編を作るのはかなり難しい。作るとすれば10年後だろう。現代の私たちが変わらないと、新たな物語は生みにくいに違いない(それでもプロだからやってしまうかもしれない、たとえば「劇場版」とか)。
 終わりよければすべてよし、という言葉は、時代がいまほど複雑ではなかった頃の牧歌的な言葉である。いまは冒頭もプロセスもエンディングも、それぞれによくないといけないから大変なのである。
 私は、冒頭で作品と友達になり、中盤はその友達と旅をし、終盤に友達と別れるのだろうと思っている。友達になれないと、どこを切っても大しておもしろくはないのである。その意味で、終わりは、昔ほど大きなウエイトを持たなくなっている。
(と、尻切れトンボ的にこの文は終わる)

描きかけ

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