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95 笑いがもたらすもの

年末年始は、お笑いと歌が増える

 スポーツ中継中心な時期もあれば、ほとんどスポーツ中継のないときもある。スポーツも恐らく好みが多種多様なので、「スポーツならなんでもいい」とはいかない。
 テレビ番組でスポーツが減ると、増えるのはお笑いと歌だ。
 かつては毎日のように「歌番組」があった。歌番組、時代劇、スポーツ。これがテレビの中核をなしていた。そこに「お笑い」が加わった。広い意味での「笑い」なら、バラエティ番組は全般に「お笑い」である。
 歌番組もバラエティ色が強くなると、「笑い」を求めるようになる。スポーツ選手が登場するバラエティでも、「笑い」がなければ成立しない。なにがなんでも、視聴者に笑ってもらおうとするのが、いまのテレビだと言えそうだ。
 もちろん、シリアスな話や、悲しい話題も皆無ではない。しかし、それを圧倒するように「笑い」を求めてる番組が増える。年末になると、とくに増えている気がする。
 M-1グランプリ2023は、敗者復活の形式が変わり、3組に分かれて会場の観客による投票のみで各組の勝者を決める。絶対的な点数ではなく、前に出た演者と次に出た演者を比べて、どちらがおもしろかったか、で選択される。こうして残った各組代表たちから、審査員が敗者復活戦枠に出場する芸人を決めるのである。
 この結果、本選で、以前から敗者復活組の出番がむしろ有利ではないか説を払拭したわけだ。敗者復活組も同様に抽選で出番が決まる。順番はとても大事なのだ。

笑いの質と量

 M-1グランプリをはじめとして、いわゆる「ネタもの」のお笑いは、数組がつぎつぎに登場する形式が多い。もし笑いが一撃必殺であれば、それほどの芸人が登場する必要はない。
 そもそも原点の「寄席」は、さまざまな芸人が登場する。必ずしも笑いを取るだけでの芸ばかりではなかった。奇術、モノマネ(動物の泣き声などが中心)、紙切り(リクエストに応じて紙を切って描く)、水芸(扇子から出る水を楽しむ)、神楽(ジャグリング)、獅子舞、都々逸、かっぽれなどなど、とにかくさまざまな芸と、笑いを求める漫才、落語、コントがセットになって、半日劇場で楽しめる。
 それがテレビでの演芸ものが隆盛になっていくと、「大喜利」が加わった。大喜利は寄席でもやっていたものだが、頻繁にやるものではなかった。ひとつの舞台で多数の落語家が登場して芸を競うというよりは、いわば「顔見せ」であっただろう。
 よくお笑いの評価をするときに、芸人とそのネタを語ることが多いのだが、実際に笑いを考えた場合は、「場の空気」と「量」は大きく影響する。
 その意味で、M-1グランプリ2023は、とてもいい状況を生み出していた。あの場ではどの芸人も受けていた。とんでもなく難しいネタを決勝でやってみせたさや香でも、ちゃんと客席は笑っていた。
 もしも質だけで論じるとするならば、さや香は一流の芸を披露したと言えるけれども、優勝はできなかった。
 一方、優勝したのは予選も決勝もトップバッターで勝ちきった令和ロマンだった。彼らの登場は、私としてはサンドウィッチマンの登場を彷彿とさせた。そしてこの芸も、一流であった。
 もっとも大事な決勝でのネタだから、令和ロマンの優勝ネタは有名になることだろうが、質の面だけを考えた時、ほかにも素晴らしい芸とネタを披露した人たちはいるから、簡単には優勝者は決まらなかっただろう。
 はっきり言えば、お笑いの優劣をつけることはとても困難で、もともとはコンテストにはあまり向いていない。客席だけでも決められないし、審査員だけでも決められないのである。とはいえ、パッケージとしてこうしたコンテンストをおもしろがる点では、あくまでも「この日の優勝はこの人」ということはあり得るだろう。令和ロマンも、場の運、時の運を大いに受けての優勝である。いや、これは優勝者を腐ししてるのではない。場の勝利、ということも大いにあるのがお笑いの世界だからだ。

喜劇の世界

 一度だけ、大阪で吉本新喜劇を見たことがあった。もっと早く入場できていれば、喜劇の前には漫才もあったのだろうが、私が到着したときには新喜劇の時間となっていた。
 そこには、島木譲二がいた。「パチパチパンチ」と「ポコポコヘッド」が売りで、パチパチパンチを見たとき、両胸が紫色になっていた。うどん屋を背景として、キャラの濃い人たちが次々登場して勝手にギャグをやっていく。メインストーリーはたいがい人情物であるが、これで泣く人はまずいないだろう。人情劇としては、松竹新喜劇が王道であった。ストーリーと関係のないギャグは少なく、いわゆる「泣き笑い」世界で、それは映画の寅さんシリーズでも同様だ。
 正直、私はこの「泣き笑い」世界が苦手だ。子どもの頃にはテレビで「デンスケ劇場」をさんざん見ていたが、泣いて笑ってまた泣いて的な話に飽きてしまったのかもしれない。だから、吉本新喜劇でも、辻本茂雄が好きなのだ。泣きのシーンをあっさり破壊するところがいい。
 吉本新喜劇はテレビでもさんざん見ていた。いまはもう見ないのであるが、ある意味のワンパターンとそれを崩す笑い、さらに勝手にギャグを展開するわがままな芸人たちのおもしろさ。
 また、笑いの点では、三谷幸喜の作品群もある。シチュエーションコメディは、なかなか難しい。海外では『スピンシティ』『そりゃないぜ!? フレイジャー』『名探偵モンク』などに夢中だった時期もあった。劇団☆新感線、野田秀樹の芝居も、笑いをぶち込んでくる。
 こうなると、お笑い芸人だけが笑いではない。あらゆるところに、笑いはしっかりと根を張っている。映画『TAR/ター』はシリアスで緊張感に満ちたドラマであったが、たとえば主人公が床に並べた有名な指揮者たちがジャケットになっているLPレコードを、足で並べ変えているシーンは、怖さと同時に笑いももたらすことだろう。
 笑いは、こちらに笑うつもりがありさえすれば、森羅万象、あらゆるとこに見いだせる。そして、笑うことは、自分の中に溜まったものを一瞬で吐き出させてくれる。その気持ちよさがクセになるのだ。
 
 
 
 


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