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23 歩くことと祈ること



スピリチュアルな話ではない

 これは、スピリチュアルな話ではなく、実用的な話。
 昔の人たちは、祈るとき、祈願するとか決意を新たにするときに、神社仏閣や聖なる地へ向かう。祈りはどこでもやれるので、自宅でもいいのだが、四国を一周したり、伊勢参りに行ったり、霊山に登ったり、歩いていける範囲で御利益のありそうなところへ行ったりする。
 祈りの効用となると、スピリチュアルな話になる。
 私が言いたいのは「行くこと」「歩くこと」である。
 散歩、ジョギング、ウォーキングなどなんでもいいのだが、どこかへ行く、歩くことによる効用となると、健康管理の話になるだろう。
 歩くことは、基本的に健康にいらしい。
 だが、私の場合、たとえば「なにかをしなければならないのに、支障があるとき」に、歩くのだ。
 支障はいろいろある。連絡が取れない。返事が来ない。思うような案が浮かばない。いいアイデアが出ない。そのほかあらゆる支障に対して、歩くことを推奨するのである。

歩くことで得られるもの

 たとえばこのnoteになにを書くべきか、うまくまとまらないときに、歩く。「犬も歩けば」である。
 先に言っておくのだが、御利益はない。
 少し歩いただけでそんなにうまく、支障を突破するアイデアがもたらせることなどないのである。
 ところが、なにもせずにじっとしているよりは、2つの点で優れている。じっとしていても、恐らくなにも浮かばないのであるから、歩いてみてもなにも得られなかったとして、大差ない。
 一方、歩くと気持ちがよくなることが多い。これも場合によるので必ずではないが、気分がよくなるか、少なくとも気分を変えることになる。そして疲れる。利点1は気分、利点2は疲労だ。
 気分を変えることは、なかなか難しいのだが、歩くことで変えられる。「いい気分になる」と保証するわけではない。「気分が変わる」点がいいのだ。じっとしていたら気分はあまり変わらない。30分も歩けば、かなり気分は変わる。この違いである。
 そして疲れる。逆に言えば、疲れるぐらい歩いてみるのだ。
「意味なく歩いたら疲れるだけだ。それを徒労と言うのだ」と言う人もいる。もっともだ。徒労である。疲れるだけで、得るものはないと思いがちだ。
 しかし人間は、動物の側面を持つ。頭が働かないときは体を働かせる。そして疲れると、人間は腹が減る、メシがうまい、眠くなる。なにかを目一杯やったとき疲労感とともに訪れるのは充実感である。
 ただ歩いただけなのに、疲労感が生まれ、なにかやり遂げたような気になる。最低限、この2点だけでも十分だろう。
 やったことはないのだが、ジムへ行く、サウナへ行くというのも、これに似た効用があるのではないだろうか。

おまけが付くこともある

 そしてもちろん、歩くことで気分が変わったり、誰かに出会ったり、なにかに目を止めたり、ふと言葉が聞えてきたりして、支障を突破するアイデアを得られることがある。
「どうしてこんなことで悩んでいたのだろう」とか「こういう角度から見れば」とか「あの人に相談してみようかな」といったことが、ふと浮かんでくることがある。
 歩くだけで、そんなことが起こるのだ、とは言えない。起こることがある、としか言えない。これは、あくまでも「おまけ」である。
 じっとしていても、浮かんだことかもしれない。ただしそれには先に挙げた2つの効用(気分と疲労)がない。2つの効用によって、同じようなアイデアでも、納得感が違う。ただ浮かんできたアイデアは、どこか頼りなく自信がない。
 気分が変わっている中で、やり遂げた疲労感まであるアイデアは、強く残るだろう。
 私の経験では、こうして得たアイデアは、だいたい2つの道を辿る。1つはそれをもとに結実していく道だ。だが、アイデアというものは、そんな甘いものではない。たいがいはもう1つの道に行く。つまり、ボツだ。
「ぜんぜん効用がないじゃないか、ボツなんて」と言うなかれ。
 ボツのアイデアこそが、真のアイデアにつながっているのだ。
 私の場合、悩みに悩んで1時間ほど歩き回ったあげく「これしかない」というアイデアを抱えてデスクに戻ってみると「こうなりました」と、すでにこちらのアイデアが不要になるような事態が起きていたことが一度ならずあった。歩き回ったことはムダではなかった。じっとしていたら、この事態は起こらなかったかもしれない。
 おっと、結局スピリチュアルな話になっていないか? しいたけ占いでも見るとしよう。
 
 
 

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