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これはお湯で希釈して飲むタイプの日常エッセイ

好きな色

あなたの好きな色は? プロフィール紹介文でありがちな質問だ。幼少期の頃は「好きな色の名前だけ回答して何になるんだよ」とか可愛げのない疑問を抱いていた。今にして思えば、捻くれ者気質の萌芽だったのかもしれない。

前々から思っていたけれど、好きな色って「ある」と同時に「決めている」側面もある気がする。色といっても風景・衣服・食物・家具・絵図・二次元キャラの髪……と多岐に渡るし、魅力的に感じる色だって時と場合次第で千変万化だろう。なのに「好きな色」だなんて漠然とした問いに誰しもが一応の答えを持ち合わせているのは、それが普遍性のあるプロフィール要素だからだ。好きな色とは、自身を説明する属性の一つとして、予め設定しておくべき項目という慣習が根付いているのだ。

例えば「好きな二色の組み合わせは?」みたいな質問に即答できる人は、単色に関するソレと比べて幾分かは少なくなるだろう。一色と二色でどれほど違うと言うのか。この質問は殆ど見聞きしないから、つまり意識的な思考や準備の機会が、今までの生活に存在したかどうかの違いである。

あたかも最初から自然発生していそうな万ジャンルにおける我々の「好きなもの」とは、実際は自己分析というフローを経て初めて自覚・設定されているのだ。これは昨今の、何事にも自分の「推し」を設定する風潮にも近しいことが言えそうだ。

「好きな二色の組み合わせは?」。ところでこれ、場当たりで思い付いた割に良い質問じゃないですかね。好みやセンスの方向性をより詳しく掘り下げられるし、それでいて回答の端的さを損ねていない。今度誰かに聞いてみたい。

マドラー

寒いのでホットカルピスにはまってる。ケトルで湯を湧かし、原液を希釈して飲むタイプ。ラベルには「4~5倍に薄めて」の表記だが、いざ実践すると思いのほか味が濃い。美味しさの標準としては甘すぎやしないか? いや、濃厚よりの味を推奨することで、消費速度と依存度を上げる販売戦略なのかもしれない。「濃い味中毒」という言葉もあるくらいだし。……日常的にこんな勘繰りを弄んでいるのは、そもそもまた別に病的である。

原液を湯で希釈する際、僕は汎用的な小スプーンを用いている。マドラーなんていう小洒落た専用ツールの準備はない。だって液体を混ぜるだけだぜ? バーテンダーが拘りのカクテル一品を作るならいざ知らず。日常シーンにおいて、あの棒状のアイテムに、スプーンに勝る最適な機能性が備わっているようには思えないし、最適な機能性が必要な行為とも思えない。だからアレは、ファンションに類するオシャレ用の小道具なんだと認識している。

スプーンでも箸でも、本来は掬ったり摘まんだりする道具であるから、液体の撹拌に用いた時点でどうしても「代用」という感覚が宿ってしまう。きっとこれがよくないのだ。なんか雑で、仮処置的な感じ。これはていねいさやお洒落とは対極に位置する概念である。

見てくれや雰囲気だって、生活の彩りには大事な要素だ。ファッションに無頓着な喪男と思われたくなければ、日常行為にブランド意識を植え付けて無用の長物を売り込む販売戦略の一つ……だなんて間違っても言ってはいけない。

自殺・他殺・自然死を含め、自分が死ぬことについて思考を巡らせるべきタイミングというものは存在する。それは断じて残業に追われていたり失恋した直後といった時期ではない。明らかにパフォーマンスに悪影響が出るし、万が一にも希死念慮を抱きかねないからだ。だから一見ちぐはぐに思えるかもしれないが、健康で、余裕があって、凪いでいる時期こそ、己の死について考えるに相応しいタイミングといえる。

LINE履歴の底に沈んでいる、長年に渡ってやり取りのない友人達の名前を見る。仲違いした訳でもなく、環境の転機を経て自然と疎遠になった間柄だ。中には、今後の人生において二度と話す機会のない人も居るだろう。

彼ら彼女らの中で、僕は事実上死んだのと同義なのかもしれない。人間は他者の中に生きているのだとか、翻せば、更新可能性の絶えた関係は死別とどれほど違うのか。二度と露出しないと引退宣言したアイドルにも、類似のことが言えるかもしれない。

ふと、LINEの友人欄の一つ、10年近くやり取りのない女性の苗字がいつの間にか変わっていたことに気付いた。アイコンも赤子の寝顔になっていて、結婚したであろう様子が想像できた。……なんか生存確認できてしまったな。向こうにとって僕が死んだも同然の存在に成り果てていたとしたら、この一方的な観測はさながら死者の亡霊の如しである。

自分が死んだとき、その事実を一体何人の人間が知覚するのだろうと考える。少なくともnoteユーザーには「飽きて投稿やめた」としか思われないだろう。というか、僕が死ぬのも投稿を辞めるのも、あなたにとっては大差ないだろう。精神が安定しているからこそできる考え事だ。

似て非なるもの

豆腐を食べる時、ヨーグルトを食べる時、同じスプーンと食器を用いている。意外と脳はバグったりせず、醤油とジャムを間違えるようなヘマも幸いにして未経験だ。いつかやらかした時、自分の疲労状況や認知機能の低下(老いていたら)を、事象から観測できるツールになり得るかもしれない。いずれにせよ、馬鹿げたことを考え続ける余裕は保持していたい。

これ、先日友人と外食して「マンジャール・デ・ココ」という白いプリンみたいなデザートを堪能していた時に考えたこと。もっと場の会話に集中した方が良い。お洒落な名前は見せかけのみならず、ちゃんと美味しかった。

どうでもいいことしか書けない

今年の問題点。本当はもっと思考占有率の高いことを書きたいのに。真面目な文章化を目論むほど「いつか本腰を入れて」と頓挫する。そして仕上げの日は永劫に訪れない。

エッセイなんて言うなれば人生の切り売り行為だ。そして重い感情や体験であるほど、商品棚へ並べることを躊躇ってしまうのだ。出し惜しみというより、満足のいく加工に至らない。

それでも良いのかな、と思わないでもない。ぼっと出の考え事をパパっと文字にして放り投げるように投稿する。多忙(笑)な生活には合致したスタイルだ。持論だがnoteユーザーの9割は暇人である。

ただ、日常エッセイって特定コンテンツのユーザー層へアプローチしている訳じゃないから、究極的には興味(好奇)の対象って発信者の文章や思考そのものになりがちだ。オタク風に例えるなら、特定のゲーム目的じゃなくて私自身のファンになって! というVtuberのスタンスと同じ。内容は割と何でも良いのだ。これは驕りや思い上がりではなく、日常エッセイというジャンル自体の特性である。

なればこそ、やはり少しは主要な思考部分も書きたいなとは思う。noteの内容と実生活はあまりにもコアに噛み合ってない。どうでもいいことばかり書いているせいだ。

どうでもいいこと……好きな色は白・白に近い淡い色全般で、好きな二色の組み合わせは水色とピンクです。なんかオタクくさいな。

色だけ回答して何になるんだよ。大人になった今は、その意味や価値も少しは理解できる。好きな色・食べ物・季節・場所。何でも良いのだ。それらは日常エッセイの雑多な内容や、Vtuberの一貫性のないアーカイブ欄と同じだ。興味の対象は、発信者そのものだから。つまり、ここで僕がおもむろに好きな色を述べたのは、ちょっとした驕りと思い上がりである。

冷静になるんだ。