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二食分の料理を作ると必ず二食分になる

・先日、はじめてゴーヤを用いた料理を作った。長らく自炊生活が続いている割に、何故か今まで手を出そうと思わなかった食材である。そういえば実家に居た頃も食べた記憶は無い。辛い物も苦い物も不得手な一家だった。

・「どうせ料理を作るなら二食分も五食分も大して変わらないわよ」と母や祖母はよく言っていた。自炊をはじめて実感したけれど、その言葉は半分は正解で、半分は間違いだった。

・二食分の料理を作ると概ね二食分になる。つまり、翌日の家事は免除される訳だ。これは生活における手間の削減に繋がる。母や祖母はそうはいかなかった。先の発言は、毎日家族全員分の食事を作ることを前提としたものだった。

・ところで唐突だけど、自炊のQoLを簡単に上げるコツを伝授しよう。スーパーで食材を買う時、なるべく値段が高い方を買うのだ。

・身も蓋も無い話だが、なにも高級食材ばかりを選べという訳ではない。同系の商品でも安物買いをしない方が良いというだけだ。素麺とかは顕著で、基本的に値段と品質は比例している。

・どの道外食よりは安上がりなんだから、の精神でね。それに、倹約がそもそもの目的だと言うのなら、努力の方向性を改めるべきな気もする。偉い人だって「倹約の秘訣はチリツモではなく大きな消費を一回我慢するべき」だと唱えていた。所説ある。

・所説ある言説は、自分好みの説を選んで権威的な常識であるかのように振りかざすのが現代インターネットの常である。君だけの最強言説ビルドを組み上げろ。

・「二食分の料理を作るとたまに一食分になるんだよね」と友人が話したことがあった。意味が分からなかった。

・美味しくて作った分を全部食べてしまうらしい。そんなことあるか? 友人は「デブだからw」と軽い調子で自虐していた。自虐と加虐は別物なので口には出さなかったけれど(多分)、僕も内心では「そりゃデブだ」と呆れていた。一食分と摂取限界量とで差があり過ぎるだろ。

・自炊によって得た気付きは多い。人間は全ての食事を腹6~7分目で済ませても全然稼働できるということもその一つだ。寧ろ体調が良いまであった。

・母は常に腹9分目、祖母は腹12分目まで食べさせようとしてきた。僕が痩せ型なのも起因していただろう。正直ありがた迷惑だったけど、大人になって思い返せば煩わしさ以外にも感受できるものはある。

・などと「成長を経て初めて気付いた家族の好意」みたいな美談にしても良いのだけれど。食事中に叱ったり口喧嘩したりしないとか、他にもっと気遣うべき所があっただろと思わずにはいられない。

・二食分の料理を作ると概ね二食分になる。概ねとはおおむねである。大体とか、おおよそとか、そんな意味。

・残業がちで帰宅の遅い同居人が、僕が作った夕食を食べたり食べなかったりしたからだ。それもきれいに一食分消費するのではなく、体調や気分次第で0.5食分だけ持っていくなんてのもザラだった。

・そんな時は、残りの0.5食分を翌日の副菜にしつつ、また別の料理を作ったりした。この偶発的なイベントは、日々の献立計画ゲームにおいて安易なパターン化を許さず、ランダム要素として戦略を複雑化させていた。僕がデブじゃなくて良かったなと言いたい。

・「自炊ができる」と「料理ができる」は微妙に違うと思う。食材の購入、消費ペースの計算、献立のサイクル構築、栄養バランスの調整……。生活の最中でそれらの充実と効率化を計るのが自炊の本質だ。

・僕はSNS映えする凝った料理は全然作れないけれど、このような生活計画の実践はかなり性に合っていた。冷蔵庫の在庫はいつも空んじることができたし、一週間分の計画を立てることもままあった。一方で、先のランダムイベントによって臨機応変な対応を余儀なくされるのも嫌いではなかった。

・嫌いではなかった、という表現が最適な語彙かどうかは良く分からない。

・今は二食分の料理を作ると必ず二食分になる。こんな当たり前の事実ですら感傷のトリガーになるのだから、困ったものである。計画は立てやすいけどね。

・子供舌で主張の強い野菜は食べないし、放っておいたらウーバーイーツだのカップ麺だの菓子だので済ませる人だったから、健やかに生きて欲しいとはいつでも願っている。ただ、多分もっと他に気遣うべき所があったんだろうなとも思う。

・ゴーヤチャンプルーは中々にパンチの効いた苦味があった。けれど大人なので曲がりなりにも嚥下できてしまった。「成長して酒を美味しく感じるのは単なる味覚の麻痺だ」なんて説があるけれど、アレは苦味全般にも当てはまるのだろうか。およそ成長とは呼び難きか老化。そんな洒落臭い達観への忌避を抱きながら、自分のレパートリーに癖のある一品が加わった。

冷静になるんだ。