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想像力と解釈

前回、あまりしっかり見なかったのでこころの時間の再放送の番組を見る

「今 互いに抱き合うこと-コロナ禍に読む聖書-」
牧師・奥田知志さん

ご存知の通り、私自身は僧侶ではありますが、この方の話は凄い。目の前の現実を見据え、その裏にある事実や真実を教えてくれている。想像する力が凄い、多分それは経験が生み出したものだろう。

さらには、聖書の読み方も違う。従来とは全く異なる解釈が展開している。弱さと向き合う、他者と自己の向き合う。さらには問うという行為も・・

問うという行為と自己の脆弱性は僕にとっての仏教であるとこのノートでも述べたことがある。

ここまで従来型のキリスト教と異なる解釈して、その解釈に基づいて生きていく勇気ってすごいとしか言いようがない。(そのことをこの方自覚している。もう多分規格外だし、それでしか生きられないのだとい自覚を持ってる。)正直敵わないと思う。

こんなことを言うと「キリスト教に改宗すればとか?」「すべての宗派は一致するとか。」「頂は同じだとか」考え始める方もいるかもしれない。そう考える方がいてもいいが・・僕はそうは考えない。

僕は基本、無神論者だし、神には問わないし、何かに投げ出すより、自己に問うことが多い。無力感に苛まれながら、それでも歩いていく感じ・・。僕が言いたいのは、何教だ何宗だというような小さな価値観ではなくて、苦や痛みと向き合うあり方であり、強いて言うなら祖師や宗祖の言葉をどう捉えるのか解釈力の大切さだと思う。

現代にあって苦しみと向き合うその過程で、ブッタやキリストの言葉を背骨としてブレを少なく生きていく。迷ったらそこへ戻り、問い直し、聞き直す。(ただ、僕がつらいのは、ブッタも人であり、日蓮聖人も人であり、モデルケースの一人であって絶対的存在とは考えていないことだ。ブッダも日蓮聖人も尊敬しているが、すべてが正しいなんて考えていない。全知全能の神ではない。その時代その場所という限定された時空で、出来うる限りのベターチョイスを行ったとは思うが・・・)いずれにせよ、抽象化と具現化が繰り返され、固定的価値観が問われることになる。

この方の名前をみて、昔好きで見ていた(今は気になるがテレビを見る暇がなくなり見なくなったが、)『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出ていたことを思い出した。

『プロフェッショナル 仕事の流儀』の本でも奥田さんの活動は触れられていて

「奥田くん、風に吹かれろ。今はそういう風が吹いているんだ。身を任せろ」(120頁)
「そのとき、僕はわかったんです。夢を実現したいと思って努力してきたけど、自分の思いとは違う「使命」という風が吹くときがある。夢よりも使命のほうが大事なんですよ。自分を否定しても「使命」をとらなきゃいけないんだって」(121頁)

使命観と求道心

「岩田君、僧侶とは、使命観と求道心を持つものだよ」とは、僧侶として修行させていただいたお寺の住職の言葉です。使命が上記のものならば、僕は多分「使命」にいきているとは言い難い。誠に残念ながら「使命」の元となる確固たる信仰心があるかと先にも示したように自信がない。

でも、細々と仏教と寺院の間にいる間に感じるのは、ブッダや祖師の言葉をステレオタイプに理解し、人々に話すのでなく、己が今まで生き感じ、今これでよいと感じることを素直に話すことしかできないという事だろうと思っています。それは、仏教を学び続けることをしつつですし、自問自答のくり返しなんですが・・・

その上で、今回奥田さんの話を聴きながら、キリストの精神なのか?奥田さんの精神なのか?わかないが、今自分が抱いている法華経観や他者や死者への考え方が似ているとは感じたのは事実です。

でも理解が似ていても、なしていることは雲泥の差ですが・・・

これからの宗教のあり方

ここから見えてくるのは、このノートにも書いたが、宗派や宗教の違いではなく、目的ベースの関わり方が問われるのではないかという事です。もちろん集団としては、宗教、宗派の違いを強調し、自己主張をするでしょう。でも何宗だろうと何教だろうと、なすべきことを成せばよいのであって、違いを認めつつ今できることを行うことが大事なのではないだろうか?

現実にこんなクラウドファウンディングが立ち僕も寄付を行った。宗派や宗教でなくその人と繋がる、その人を支援するそういう時代に来ていると思っている。時代は変わりつつある。

自分もそれに値する人間であれるかが問われてはいるのだが・・・





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