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59.自論と正論を履き違えるな 正論言いたいマンになって嫌われない為に


投稿の背景

自分の考えが社会と合わないと感じること多く、
長らく生きづらさを抱えて来ました

そんな経験から、自分の考え方自体が良くないのではないのかと、
自己否定をしてしまう様になりました

環境が変わったり、noteで考えを整理してみて、
自分の考えが、社会と合わなくても、
別に何も悪いことではないし、
間違った事では無いと知り、
自己肯定感の向上、自己受容に繋がりました

でも、もう少し自論について考えておかないと、
環境や結果次第では、間違った方向へ自信過剰になってしまい、

ただの自論を正論だと履き違え、
人の考え方をねじ伏せようとする危険性があると、
危機感を感じました

あくまで自論は自論に過ぎないと考えた自分の考えを
自戒の為に書き残しておきたいと思います

正論ってなんだ?正しさってなんだ?

絶対的な正しさがまずそもそも存在しない

まず、そもそも正しさとは何ぞやを考えた際、
絶対的な正解は存在しないのではないかと思います

仮に、今正しいと思っていても、
科学技術の進歩や、社会情勢の変化で、
いつでも自分が正しいと信じる正解が覆る可能性が大いにあり得ます

あり得るどころが、覆るものだと思っていた方が適切な表現かもしれません

なぜこのような暴論とも取れる事を言うかというと、
歴史から過去の事例を見ると、
その当時正しいとされていたことが、
後の時代に覆っている事例がいくつも存在するからです

自分が歴史を学び直して知った事例を2つほど挙げてみたいと思います
そういった事例が数多く、どれを挙げるか選ぶことに迷ってしまいました

ただし、ここに挙げる内容が間違っている可能性もある為、
盲信しないようお願いいたします

過去の事例1.うつ病や精神疾患の歴史

自分自身が精神的に辛かった頃、
どうやったらメンタルが強くなるのか色々と調べていました

その中で、昔と今では、
うつ病や精神疾患に対する考え方が全くと知りました

近代のみここでは記載をします

最近では、鬱は誰でもなる可能性がある
"こころの風邪"と聞く事が増えました

でも、つい数十年前まで、
病気として扱われ精神病棟へ入れられたり、
生きる価値がない人間として、迫害されていたと知りました

自分の祖父母世代と話していると、
メンタルが弱い人を病気やおかしな人、心が弱くて軟弱と
本気で思っている人が多い印象があります

うつ病や精神疾患に対する捉え方が変わろうとしている転換点に
自分は今、立っているという事を知りました

過去の事例2.出産の歴史

かつては女性が子供をどの様に身ごもるか未解明だった為、
出産はとても神聖なものとされていました

その考え方が特に宗教に強く表れており、

日本では、
神道では神聖な行為を通じて新たな生命が誕生すると考えており、
それ故、出産時の血や痛みを"穢れ"《けがれ》として扱っていたと聞きました
また、産神《うぶがみ》と呼ばれる出産時の運命を定める神様が存在します

また、キリスト教においても、イエス・キリストが誕生に関わる聖書の中の話で、
マリアは、神よって子供を身ごもるというシーンがあります
(興味のある方は、「マタイによる福音書1章18~21節」、「ルカによる福音書1章30~33節」、「受胎告知」、「処女懐胎」といったキーワードで調べてみて下さい)
※自分はクリスチャンではありません

その他、イスラム教、ヒンドゥー教の国々でも、
日本と同様に出産を穢れとして扱われており、男性から隔離されることが一般的だったと聞きました

当時よりも医学が発達した現代を生きている自分にとっては、
初めて上記の様な話を知った際、
当時の人は頭がおかしいのではないかと、失礼ながら思ってしまいました

でも、まだ人間がどのように出産するか解明されていなかった為に、
わからないという不安を払拭する為か、
当時の最適解を出して、教えとして流布して、
社会的な正しさになっていたのではないかと思いました

後の時代の人間から見れば、ばかげていると思っていても、
原理が解明されない限り、
ばかげた理論も正しいとなってしまう事を知りました

自論は正論ではない

こうしてつらつら書いている自分の文章も、
いくら権威のある文献を参考にしようとも、
いくら筋が通り正しそうに聞こえたとしても、
あくまで自論、思い込み、妄想でしかありません

かなり甘めの評価で、
現代の"最適解"と呼べたら良い方かもしれません

でも、自分の考えが周囲に理解されず、
意地悪をされたり、迫害されたり、嫌な思いを経験した人であればある程、

後から自分の考えと、社会や周りの考えが追い付いて来たと感じた際、
"やっぱり自分は正しかった"と思う思考に陥る危険性があると思います

でもそれは、自論がたまたま社会の考えに一致した、
もしくは、社会の正しさにする為に、自分が社会に働きかけた、
ただそれだけの話ではないかと考えます

自論は自論であり、正論ではないと自分は思います

自分は間違っているかもしれないという考えを頭の片隅に置き、
自分とは違う考え方も聞いてみて、
思考により磨きをかけることが、
非常に重要ではないかと個人的に考えます

過去の経験を振り返ってみて思う事

周囲の人曰く、自分は
理詰めで物事を考える傾向があるようで、
時として人に対し、理詰めで質問をしたり、
理詰めで話をしているという印象を与える事がどうやらあるようです

でも、他人と比較した際の自分の特性を認知していなかった為、
自分が理詰めで物事を考えていたり、
聞き手が問い詰められていると相手が感じる程、
矛盾や疑問をぶつけ続けていると知りませんでした

その為、度々、
「正論だけど、言い方がきつい」と言われたり、
「正論をよく振りかざす」と嫌われることがありました

正論を振りかざしているつもりは全くなく、
ただ自分の意見を素直に伝えただけなのに、
なぜ正論を振りかざすと言われるのか全く理解が出来ませんでした

また、自分が女性であったという事も周りと不協和を起こす理由ではなかったかと推測します

女性だらけの環境では、
論理的に筋が通っているかという事よりも、
共感が何よりも重視される傾向があると個人的に感じます

大学生から理系ばかりの環境になるまで、
自分の周囲は女性ばかりの環境だった為、
周囲となかなか馴染めず、
嫌われたり、変な者扱いをされたり、除け者にされたり、
非常に痛い想いをしました

経験しなくて済むなら、したくなかった経験です
でも結果として、理屈でばかり物事を考える自分が
人の感情的な痛みを知るきっかけになり、
共感力が養われました

社会人になってからだんだんと、
相手の話を聞き、相手の痛みに共感しつつ、
自分の意見を伝えるようになりました

すると、「人当たりが良い」、「説得力がある」等、
これまでにない良い印象を持ってもらえる事が増えました

理詰めで考えるという自分自身の考え方は変わっていないのに、
周囲からの自分の評価が大きく変わったことが、
ずっと不思議でなりませんでした

こうして色々と書き出して整理した結果、
自論は正論ではないと強く自覚し、
相手の考えに共感しながら、
自分の意見との擦り合わせ出来るようになったことで、
評価が変わったのだと気が付きました

1番人間関係で上手く行かなかった中学生時代には、
自論を正論と本気で思っていました

その為、いかに強気で、理論で相手をねじ伏せるか、
そんな危険な思考を持っていたと思います

少し痛い目に遭い、
自論が正論ではないと理解していた学生時代も、
言い方がきついと言われていました

まだ共感力が乏しかったのだと思います

ここに書き出すまで、上記の理由を自覚できていませんでした

社会人になってから、職業的な立場もあり、
たたまたま共感を示しながら自論を述べていたことで、

はっきりと自分の意見を述べても、
正論をただ振りかざし、上から物を言う人ではないと、

クライアントから聞く耳を持ってもらえていたのではないかと思います

理系やINTJタイプの注意点

自分の良さを殺さない為に

こうして書き出してみて、
理系、INTJがよくが嫌われる理由として、
自分の知っていることを正論として振りかざしてしまう事が
原因なのではないかと思いました

理屈っぽい、正論を振りかざす、など
自分と同じような事を言われる方は、
その人自体の考え方が悪いことが原因ではないと思います

相手へ共感を示しつつも、
自分の持っている知識等を理論整然と述べることが出来れば、
頼りになるアドバイザー、博識な人と、
評価が良い方向へ変わるのではないかと
このnoteを書いていて気付かされました

論理的に物事を考えたり、
専門的な知識を持っていたり、
色んな情報に精通していること自体は、
本来メリットでしかありません

でも、自分の持ち合わせている情報はあくまで自論で、
それを知らない、そう考えない人もいるという事を頭に留め、
相手の意見にも耳を貸し、
意見を擦り合わせるというバランス感覚が持てれば、

いつでもとても素晴らしいプロフェッショナルになる素質を持っているのではないかと思います

自分自信の特性や良さを欠点として扱い、
殺してしまうのではなく、
生かせるように、
自身がまず、自分の強みと弱みを認識する必要があると思います

自分の生きづらさに悩んでいた頃、
何となく「孫子の兵法」を読んで見たことがあるのですが、

その中に
「彼を知り、己を知れば、百戦して危うべからず」
という考えがありました

戦争をしているわけではありませんが、
日常でも非常に役に立つ教えだなと感じました

相手の事ばかり考えがちですが、
自分のことも知った上で、
物事に取り組めば、
失敗することは無いというのは、当時は目から鱗でした

その考えを意識するようになってから、
物事のへの取り組み方が少し変わり、
生きづらさも解消し始めました

自戒として、自分が気を付ける具体的な事項を書いていきたいと思います
自分と似た理系らしい話し方や、
INTJの方向けの参考になれば幸いです

INTJタイプ

さらっとINTJタイプという文言を書いたのですが、
少し補足しておきたいと思います
MBTIと呼ばれる16パーソナリティ診断をご存じでしょうか?

INTJタイプとは、16種類ある内のその1つです

以前勤務していた会社社長から社員へのメッセージで初めて知りました

人をラベリングしたり、カテゴライズすることが好きでは無かった為、
当時はよくある性格診断的なもの程度にしか受け止めておらず、
軽い気持ちで受けました

診断結果がINTJ(建築家)と記載されおり、
説明内容は、当てはまる様な、当てはまらない様な、その程度の感覚でした

3年ほど経過し、MIBTテストのことも忘れていたのですが、
日本を出て、久しぶりにこのMIBTテストに遭遇しました

語学学校の入学にあたり、一番初めのクラス分けテストの際、
学力テストだけでなく、性格テストとしてこのMIBTテストを受験しました

結果は、変わらず再びINTJでした

調べてみると、
自分の性格傾向から適切な勉強方法や仕事をする為に、
海外の教育や採用現場でも活用されているそうです

このnoteで、自己分析や、感じたこと、考えを書き出してみて、
自分自身がわかるようになって、
改めて自分の診断されたINTJタイプの性格内容を見てみると、
これほど自分の特徴を言い表しているものはないと感じました

同じ診断、結果にも関わらず、
自己理解が出来ているかどうかで、
見え方が全然違うという事に驚きました

自分自身を書き出した自分の考え方の癖や、興味、嫌いな事等に加え、
MBTIテストの記載内容、同じタイプのブログ等を見てみて、
3年前に初めてMBTIを受けたときよりも、
客観的に自分のことを見ることができるようになりました

でも、"INTJ "と検索すると、
"殺意の目"、”性格が悪い”、"コミュ障"、"社会不適同者"等、
あまり良いものが見られませんでした

偶々そういった悪く聞こえる言葉を拾ってしまったのかもしれませんが、
これまで自分がなんとなく感じていたり、
生きづらかったり、
人と衝突した過去の経験と照らし合わせて、
正直、納得してしまった部分もありました

自分のことも、他人のことも、以前より少し視野が広がったことで、
人と関わる際に以下の様な注意が必要と感じました

自分が人と関わる際に注意する事

知的好奇心旺盛はとても良い感性

理詰めで持論を言えるという事は、
それだけ自分の中に何かしらの知識や経験があるからではないかと思います

またそれだけでなく、
目の前の事象に関して、持っている知識/経験を使い、
自分の頭の中で考えているから、
自論が述べられるのではないかと思います

その根本になっているのは、
知りたい、なぜ?といった知的好奇心ではないかと思います
好奇心があるから、知識を付ける為に、
勉強できると自分は考えます

でも、こういった自分の好奇心から来る行動を、
"ガリ勉"、"真面目"、"地味"、"付き合いが悪い"等、
過去悪く言われて来ました

言われ続け、周りに同じ価値観を共有できる人もおらず、
自分はおかしい人間なのかもしれないと思ってしまっていました

でも、新しい事を探求し、学び続けられる源である知的好奇心は、
手に入れようと思っても後天的に手に入れることは難しく、
素晴らしい感性で、
大切な個性ではないかと思います

誰かに否定されようとも、
自信を持って誇れる感性と自分は思います

人と距離を取る、人との関りに淡白な自分を責めない

知的好奇心旺盛であると、
時として人との関りが淡白になる事があります

"
人"自体には、興味があっても、
人との繋がりや一体感など、
人と触れ合う事で得られる体験に、
楽しみを見い出すことが難しい事もあります

多くの場合、
馴染みのメンバー、馴染みの場所、馴染みのイベントで、
始めは楽しくても、何も目新しさが無く、
パターンが見えて来て、
全く好奇心が刺激されないと感じます

長年、なぜ皆ずっと同じことをしていて飽きないのか
とても不思議でした

でも、こういった自分の感じ方は、
少し周囲の人とは違っていた様でした

周囲と違う人との関わり方に対して、
自分がおかしいのではないかと、
自分を否定する理由の1つにもなりました

人と沢山関われば、改善すると思い、
無理に人付き合いをして克服しようと、
無理して努力をしたこともあります

確かに、皆と同じ様に人と関わるという行為は出来ましたが、
寧ろストレスが溜まってしまいました

そうした自分の感性は、
努力して治せるものではありませんでした

ただ、思考錯誤して見えて来たことは、
この人と一緒にいると面白いと感じれば、
いつも同じ人といても飽きないし、
自分からその人に会いたいと思います

関わって面白いと、
自分が興味を引く人が少ないだけでした

人との関わりを楽しめない自分をつまらない人間と思ったり、
そんな自分を無理に直そうと思わなくても良かったなと
今となっては思います

孤独を苦と思わないのであれば、
最低限社会とのつながりは保ち、
自分の時間を楽しめば十分でした

寧ろ、孤独になった分、
存分に自分の興味のある事を深堀りでき、
自分の専門性を磨く時間に使う事が出来ます

この自分の性格は、
プロフェッショナルを目指すには重要な素質だと気が付きました

質問攻めに注意する
とはいえ、特に子供、繊細な人相手に対して、
質問する場合は尋ね方に気を付けた方が良いなと感じます

また、あまりにも気を遣って疲れてしまうのであれば、
そういう機会をなるべく避けるのも1つの手ではないかと思います

言葉遣いに気を付けていても、

懐疑的な性格&好奇心旺盛な性格から、
ただ詳細を聞きたいだけなのに、

言い方が冷たいと、
責められている印象を与える事もあったり、
無意識に相手を傷つけたことが多々あります

怖がられたり、悪意無く泣かせしまった事もありました

質問を感じられる感性は大事にしつつも、
クッション言葉を使ったり、
笑顔を心がけたり、
興味や矛盾点を率直に伝える場は選ぶことが重要ではないかと思います

誰もが感情を置いて行動できるわけでは無い事を知る

自分の感覚では、
知的好奇心や目標達成の為に、
自分が取れる全ての行動をするのは当たり前です

でも、20年以上生きてやっと気が付きましたが、
世の中にはどうやら、恥、不安、プライド、社会的体裁等の原因で、
知りたい/やりたいと思っていても、
行動に移せない人が多くいる事を知りました

時に行動に移せない人から、
自分の行動を制限しようとされようとすることがあります

自分と相手の行動への原動力は違うという事をわかった上で、
イライラしたり、相手を変えようとせず、
自分のリソースを無駄に使わず、
相手にしないで、
自分のやることに集中する事が大事だなと思いました

相談して来た相手が共感と解決策のどちらを求めているか見極める事

相談されることが度々あるのですが、
自分の回答が非常にささる時と、
全く刺さらない時がある事に気付きました

物事の根本原因の解決の為に手助けをしていて、
共感は一時的な気休めで、
根本解決にならないと思っています

でも、自分の理詰めな具体的な問題解決は、
どうやら機嫌を損ねる人がいるらしいのです

色々と疑問に感じながら、
上手く行く場合と上手く行かない場合を自分なりに分析してみて、
同じ相談でも、
解決策を求める人と、共感をただ求める人がいるという結論に至りました

課題解決を求めている相手であれば、感謝/重宝される一方で、
共感を求めている相手であれば、反感を買うという事に気が付きました

実際に自分の経験として、
SIerとして働いていた頃は、
具体的な解決法は非常に重宝されました

でも、恋愛話に対し、
本質を突いた回答をすると、しばしば嫌われる事がありました

また、愚痴だらけの話に対しても、何かを変えたいなら、
愚痴で気休めするのでは無く、
行動に移した方が早いと思うという
本質を突くようなことを言い、
自信満々と勘違いされたこともありました

所謂、男性脳、女性脳と巷で呼ばれるものだと思います
(性別は関係ない思考の癖と思う為、この呼び方は好きではありませんが)

自分が相談を受けた際、
相手が共感タイプか、解決提示タイプか見極め、
相手に応じて回答や受け答えを変えるか、
難しいようであれば、どうしても必要に迫られる場合以外は、
共感タイプの相談は避けるというのも手だと思いました

下手に合わせて相談に乗ると、
お互いにとって、不毛な時間になると実体験を通じて知りました

また、問題解決を求められる仕事で、
この自分の特性をしっかり生かす方法を考えた方が
自分にストレスなく発言出来ると感じました

脳トレの為に、人と会話することを意識的に作る

あまりは人と話すのが好きではなくても、
自分の無理のない範囲で、
人と会話する機会を定期的に作ること

脳の勉強をしていて知ったのですが、
コミュニケーションを司る脳は、
定期的に使わないと鈍ってしまう為、
脳トレの一環と思って、
意識的に会話することは重要だと知りました

思考を書き出すこと

インプットばかりしていないで、
アウトプットすること

自分の考えを発信し、
理解者を作るように努めること

口数が少ない分、
誤解されやすくなります

文章で自分の考えを書いて、人に伝えたり、
自分の頭の中で思考の整理が出来ていれば、
相手に迷うことなく自分の意見を伝える事が出来ると思う為、
思考を書き出し、
整理しておくことは非常に重要と感じました

あくまで自論であることを忘れない事

自論はたとえ科学的根拠に基づいていたとしても、
あくまで自論であることを忘れないこと

正論として振りかざさないこと

自分の感覚と外の考えを融合させること

感覚的に本質や矛盾を突くことは、
論理的思考が得意なタイプであれば得意ではないかと思います

でも、なかなか社会の常識や、偏見等から、
本質を突く自論が、
わがまま、協調性が無い、ストレートな物言いをする無礼者と
扱われてしまうことがあります

そういった扱いをする人が多い日本人の考えも
正直どうかと思いますが、

社会で生きていく上で、
自分も譲歩しなければならない時がある為、

こうしたことを意識しておくことは大事かと思いました

統計、歴史、科学的根拠等、
外の考えを融合させると、
自論が強力な説得材料になり、
わがまま、強調性が無いと言われずらい傾向があると感じました

自論を正論とはき違えない為

この記事もあくまで自分の自論に過ぎないということを踏まえ、
読んで頂けますと幸いです

自分の考えを書き出して深堀りする事

自分の持っている考えを知る事が
まず最初のステップではないかと思います

なぜそう考えるのかという問いを繰り返していると、
意外とよくわからずに形成された
正しさや価値観に囚われていることに気が付くのではないかと思います

書くのは簡単ですが、
実際にやってみると、
思考体力を要すると思うので、
少しずつ進めていくことをお勧めします

また、少し時間が経過してから、
自分の考えの文章を読むことで、
客観的に自分の考えを見返すことができ、
前回考えが及んでいなかった事に気が付くことがある為、
後から見返すこともおススメです

歴史を知る事

やはり知る事、勉強する事は外せないと思います

自分の考えを書き出してみると、
なぜそんな考え方をしているのかという問いが
生まれるのではないかと思います

始めは親や先生、上司から言われたという回答になるかと思いますが、
さらに深堀ると、
なぜ親や、先生、上司は、そのような考え方を持ち、自分に教えを説いて来たのかという問いが生まれてきます

すると、行きつく先は、社会の価値観で、

さらに深堀すると、
社会の価値観がどうやって形成されたかという問いには、
歴史を学んで知る事で答えが得られると思います

今見ている自分が見ている目の前の事だけでなく、
自分の生きている時代以外にも視野を広げてみると、
自分が囚われている正しさは、
あくまで一過性のものに過ぎないという事も
見えて来るのではないかと、自分は思っています

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