見出し画像

あたまのことば、こころのことば

ブラッドベリチャレンジで読んでいる「存在の耐えられない軽さ」
今日読んだ部分がとてもよかった。

ヒットラーとアインシュタイン、ブレジネフとソルジェニツィンの間には差異よりもはるかに多くの類似がある。
もしそれを数値で表現できるなら、両者の間には百万分の一の差異と、百万分の九十九万九千九百九十九の類似があるであろう。

存在の耐えられない軽さ

物語の中のトマーシュがそうであるように、そのわずかな差異を知りたいと思う。

noteを書くのが久しぶりになってしまった。
書きたいと思いつつ書けなかっった。
以前、『自分の心の機微に敏感になって「話したい」「知りたい」を表現する』という記事を書いた。
自分の心の機微に敏感になる。
それは具体的にどういうことだろう?
どうすればそれができるようになるだろう?
答えはきっとシンプルで、ただこうやって書けばいいのだと思う。
自分の心の機微に敏感になるために、心の言葉を書く。
頭で考えた言葉が悪いわけではなく、心の言葉書けるようになりたいのだ。

ブラッドベリチャレンジとは別で読んだ「夏みかんの午後」という本。
こちらも面白かった。

しかし、ここ数年唯一続いているのは、日記を付けることで、それまで一度も試みたことはなかったが、慣れてくると、その日の出来事だけでなく、思いついたことや感じたことを、正直に書くことができた。

夏みかんの午後ー「砂浜とボート」

僕は、日記ってなんだか書きにくい、と苦手意識を持っている。
多分、頭で考えてカッコつけようとしているからだ。
書き続ければ、素直な言葉も書けるようになるかもしれない。

いま目の前にあるハッピーな事柄でさえ躊躇しなければならないほど駄目になってしまった自分が惨めに思え、それまで溜めてしまっていた様々なことが一気に吹き出してしまったのだ。

夏みかんの午後ー「砂浜とボート」

わかるなー、と思った。
ハッピーなことを素直に受け取る。
そんな単純なことをどうして難しくしてしまうのだろうとも思うけど、単純なことを単純なままにできないときもあるのだ。

先日、「せっかく会えたんだし、〜」という言葉をかけられたとき、泣いてしまった。
相手は困ったと思うが、それは悲しかったからでも、つらかったからでもなく、うれしくって泣いたのだ。
自分との出会いをそんな風に思ってくれる人がいる。
それはうれしいことだ。
そこで涙が出るのは、自分では自分のことをそんな風には思っていなくて、その言葉に驚いてしまったから。
そのときは、うまく言葉が出てこなくて黙り込んでしまったので、相手をさらに困らせてしまった。

自己表現って、自分のためだけにするものでもないな、と思った。
うれしいときに、泣いてもいいけれど、その涙はうれし涙なのだと伝えて、せめて相手を困らせることはないようになりたい。

*

Rinfinity~食にたずさわる人の生き方~
料理人や農業従事者の方へのインタビュー記事を発信しています。
第7弾、名古屋の南インド食堂「チェケレ」の中島憲二さん・中島加珠子さんのインタビューが公開中です!!


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?