見出し画像

中島憲二さんの生き方・中島加珠子さんの生き方

ー食にたずさわる人の生き方にふれることで、再び、自分や他者、世界の広がりを感じるー
【インタビューマガジン・Rinfinity】

第7回の2023年10月は、名古屋市・新栄『南インド食堂チェケレ』中島憲二さん・中島加珠子さんにお話を伺いました。

『南インド食堂チェケレ』
Instagramはこちら
X(Twitter)はこちら

ーこれまでの経歴を教えてください。

「高校を卒業して、すぐに飲食の仕事をはじめたわけではなくて、それまではいわゆるサラリーマンでした。最初、工場で働き始めたんですが、『ここで一生終わってしまっていいのかな』と思うようになって、1年ほどで辞めました。
当時フリーターという言葉すらない時代だったんですけど、アルバイトでお金を貯めながら『自分のやりたいことはどういうことなのか』っていうのを探していました。
その中で映像の仕事の募集を見つけて、それ以降40歳過ぎぐらいまでずっと映像の仕事をやっていました。
映像の仕事は楽しかったんですけど、結構ハードなところもあるんですよね。
深夜まで仕事したり、徹夜したりとかで不規則な生活だったので、『これをいつまでもやるわけにもいかないな』と思って。
料理は元々趣味でずっとやっていて、『自分のお店をやりたいな』と思いつつ、お金のことだったりを考えると簡単には会社を辞められなくて、何年かは結局そのままの状態でした。
その時に、奥さんに『そんなこと言ってたらいつまで経ってもできないよ。年も年だし、もういい加減やらないと厳しいよ。』っていうことを言われて。
それがきっかけで、映像の仕事を辞めて飲食店のアルバイトをはじめました。
そこからいろんなお店で働いたんですけど、前職では名古屋駅にある【エリックサウス】という南インド料理のお店で働いていました。
【エリックサウス】の前身で【エリックカレー】というお店があったんですけど、そこができるっていう時に、その会社に直接『働かせてもらえないか』とお願いして、約7年社員として働いていました。」

「私は、写真の専門学校を卒業して、最初は写真スタジオに入りました。
何年かして、彼が映像の会社に入ったので、映像も面白いと思って、私も映像の会社に入ったという感じなんですけど。」

「ひとつ、ごめんなさい。
今の話の前に一応お伝えしておきますね。
自分たち、高校生の頃からの付き合いで。
コンビニのバイトで知り合ったんですね。
なので、映像の仕事をはじめた頃ももう付き合いをしてたので、かなり長い付き合いというか。
そういう前置きがあっての、今の話です。」

「そうなんです。
名古屋で働いていた映像の会社は倒産してしまって、そこから二人で東京で7、8年映像の仕事をやっていました。
名古屋の映像の会社が潰れたときに、何もすることがないから近所のヨガ教室(当時はヨガ道場)に通い始めたんですね。
東京に行くまで1年ぐらい通っていました。
それで『インドって面白いな』と。
それから二人で東京に出たんですけど、私の映像をやってた時の先輩で、アーユルヴェーダの施術師になるといって東京に出た方がいたんです。
その当時、アーユルヴェーダ(生命の知識)って言葉も全く知られていない時代に『講師を育てるための映像を撮ってくれないか』という依頼があって。
その映像づくりに1年間たずさわりました。
古代インド医学に関わるコアな部分を撮影者の立場ではあるけれどみせてもらったんですね。
そこでも、『インドすごい』と思ったんです。
『1度インドへ行ってみたいな』と思って、27歳のときに行ったんですね。」

ーそれはお二人で行かれたんですか?

「いや、一人で行きました。」

「僕はその頃は、インドというものにまだ興味がなかったので。」

「私の方が、『インド、インド』ってなってて。
彼がインドに興味を持ったのは、飲食に目覚めるちょっと前からで。」

「そうですね。
料理は若い頃からやっていて、東京で一緒に住んでいた時もご飯は僕が作っていたんですけど。
当時は全くインド料理には興味がなくて。
その頃、エスニック料理っていうとタイ料理とかベトナム料理がメジャーだったんですけど、最初にパクチーとかナンプラーを食べたときに合わなくて、あまり好きじゃなかったんです。」

「私は20代前半に、アーユルヴェーダ、インドの深い叡智っていうものに出会っていたので、『インドってすごいんだ』という思いがあって。
エスニック料理も元々好きだったんですね。
だから、『食べに行こうよ』って誘うんですけど、当時は一緒に行ってくれなくて。
でも、彼が体調崩した時に食にこだわりはじめたんですよね。」

「そうですね。
自分がより食、食べるものにこだわり出したきっかけが、30歳過ぎぐらいの時に、潰瘍性大腸炎っていう病気になってしまって、何度か入退院を繰り返してた時期があったんです。
腸の病気で食べるものに制限がでてくるので、自分の身体にいいような食べ物を調べたり作ったりするようになって、より料理にハマっていったっていうのはあるんです。
あとは病気になったことで、一言で簡単に言うと『考え方が変わった』っていうところがあって。
病気になった当時は、闇の部分が多かったんです。
その前に僕、リウマチも患ってて『何で自分ばっかり』みたいな。
徐々に悪の考え方になっていっちゃうかのような、そういう闇っぽい時もあったんです。
でも、『この病気とうまくやっていくしかないだろう』と付き合い方を考えられるようになっていったんですね。
その前までは、完全にネガティブな考えしかできなかったんですけど。
あの病気がなかったら未だに変わってなかったかもしれないし、今の料理の仕事もやってなかった可能性も充分あり得るので。
病気になったことが一つのきっかけというか。
病気になった当時は、バカみたいに薬飲んで、症状も辛くて。
そういうのを、なんか乗り越えたっていうとちょっと言い過ぎですけど、経験してきて、考え方とかも変えていったら、なぜか症状もなくなってしまったっていう。
飲食の仕事をはじめたのと同じぐらいのタイミングだったと思うんですけど、それ以降症状がなくなってきて、今は一切薬も飲んでいないですし、全く症状が出ていないんですね。
病気に感謝はしていないですけど、病気になったことで人生、考え方とかは変わっていって、今ここにいるんだろうなっていうのはありますね。」

南インドの軽食「ドーサ」は、いつでも食べることができます

ー食の中でも、『インド料理』に興味を持たれたきっかけは何かあったんですか?

「元々料理は好きで、色んな国の料理を作っていました。
それで、インド料理よりも前にトムヤムクンの素とかを使ってタイ料理とかを自分でつくりはじめたんですね。
それから、ちょっとスパイスを使う料理をやってみたり。
家の近くのお店で格安でスパイスを売っているところがあったので、『これはこういう使い方なんだな』と調べながらスパイスを使っていくうちに、インドカレー、インド料理にハマっていきました。
なので、自分で作っていくうちにインド料理にハマって、外でも食べるようになって、そこからもう抜けられなくなっちゃった感じですかね。」

「私としては、好きなインドに彼がハマってくれて、してやったりです(笑)」

店名の『Chekele-チェケレ』は、『Sunset-夕焼け』を指す言葉だそうです

ー映像の仕事を辞めたときから、
『自分のお店を持ちたい』という気持ちはあったんですか?

「そうですね。
逆に、『自分のお店を持つために辞めた』という感じですかね。
最終の目的は、『自分のお店を持つ』。
自分のお店というか、『二人のお店』なんですけど。
子供をつくろうとしてた時期があったんですけど、ある一定の年齢にいったときに諦めたんですね。
その時に、二人だけでもいいんですけど、何か共通の楽しめるものというか、『二人を繋ぎとめるものがある方がいいのかな』という思いがあって、それを『お店』というかたちにしただけであって。
なので、映像の仕事を辞める時点で、『二人のお店を持つこと』が最終目標でした。」

ーお二人でいる期間がすごく長いと思いますが、
『相手のこと・相手の人生』をどうみていますか?

「うーん、『今が今までで一番仲がいいかもしれない』と言えるかもしれないですね(笑)
東京にいたときは、一緒に住んではいながらも仕事がほとんどメインで生きてて。
生活リズムが不規則な仕事でもあったので、サイクルが合わなかったんですね。
休みの日でも『仕事で疲れてるのにわざわざ外に行きたくもないし』みたいな感じで、一緒に出かけることも当時はほとんどなかったです。
彼女は彼女で何か月も一人で旅行に行ったりとかもしてて。
お互いにあまり束縛しなくて、一緒に住んでいながら『二人の時間』というのは当時少なかったです。
その当時の唯一の共通項が、住んでいた部屋に猫が現れるようになったんですね。
それで、その猫が夜な夜な遊びに来るのが二人とも待ち遠しくて(笑)
それが共通の楽しみで、今はそれが『このお店』になったというか。
飲食の仕事をやり始めてから、二人でいる時間も長くなったし、一緒にご飯を食べに行ったり、旅行へ行ったりすることも多くなって、より仲良くなっていった感じですかね。」

「彼が身体が弱かったっていうのを心配していたこともあって。
振り返ると、『病気がここに至るまでを教えてくれた』というのはありますね。
生き方を考えるためのいい材料ではあったな、と思います。」

「『病気になるのは意味があって病気になる』と思うようにしてました。
無理やりにでもいい風に考えていかないとやってられない時もあったので。
病気は、本人にとっては全然いいプレゼントじゃないですけど、『何かしら意味があって自分が病気になったのかもね』と思うようになって、徐々に気持ちが楽になっていった感じですかね。」

「彼の病気がひどかったときは、半年間入院してたんですね。
だから、助けてあげたいというのはおこがましいんだけど、『一緒にいて何か私ができることがあれば』と思って、ずっと一緒にいたような気がして。
今もそうなんですけど、私はサポートなんですよね。」

「そういう意味では、すごく助けてもらってると思います。
今がというよりは、『今まで』ですね。」

「映像の仕事でもサポートをずっとやって来たんですね。
『サポートするのが私は得意なのかもしれないな』と思えるようになりました。
やっと、最終地点ではないけど中間地点に立って、自分のことがわかってきて、これから人生を謳歌できるのかな。
まだまだ『自分』がわかってないんだけど。
多分、死ぬまで『自分』を分からないと思うんですけど、やっと楽しめる時期になってきましたね。」

「そうは言っても、今のお店の装飾とかは全部彼女がやってますからね。
僕の当初思っていたのとは全然違っているので、決して『サポートだけが好きなわけではないんだな』というのがわかりました(笑)」

店内の様子
お二人は壁の塗装作業にも参加されたそうです

ーオープンから半年が過ぎましたが、
これからどんなお店にしていきたいと思っていますか?

「インド料理、南インド料理というのは、すごくマニアが多い世界でもあるんですね。
最初は、『そういうマニアの人たちにも認められるようなお店になりたい』というのが一番の目的だったかもしれないですね。
それで、いざやってみると、最初のうちはそういうお客さんもすごく多かったんですけど、徐々に普通に食事として利用されるお客さんの割合がどんどん増えていって、完全に今は逆転している状態なんですね。
なので、お客さんの層がそっちに傾いているのであれば、よりそのニーズに合わせた料理、提供の仕方をしていくというのが、飲食店として成長していく過程としては正しいんじゃないかな、と思って。
自分がやりたいことだけを押し通すのが正しい飲食店のやり方ではないと思うので、『今のお客さんのニーズに向けたお店づくり』というのをやっていくべきなのかな、とちょっと思ってて。
なので、『取っつきやすいインド料理屋さん。でも、なんか見たことのない料理だったり、カレーとかあるね』というようなお店になればいいのかな、と。」

「いつも、お店がはじまる前に働いている皆で神棚に向かい挨拶をしています。
私は『お客さんが笑顔で帰っていきますように』とお祈りをしてるんですね。
笑顔で帰っていくお客さんの後ろ姿を見るのが本当にうれしくて。
私も笑顔なんだけど、『スタッフの皆が笑顔で過ごせますように』というのと、『お客さんが笑顔で帰っていきますように』って。
最近、私の仲のいい友達の旦那さんが亡くなったんですけど、『思いっきりやらないといけないな』と思って。
『もしここで亡くなったら』というのを私も一瞬やっぱり考えて、『やりきって、自分を出し切って、悔いのない人生を生きないとな』と思っています。」

中島憲二さん、中島加珠子さん、ありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?