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世界観をぶっ壊してまでなぜキリスト教を信じたのか

科学は世界についてのナレーションを改善する営みだ。新技術や新理論で新発見された現象とナレーションが合わなくなることは普通に起き、ちゃぶ台返しはノーベル賞に。科学は世界の解像度を高める良いものだが、科学の提供するナレーションは砂上の楼閣にすぎない。イエス様は言う。岩の上に家を建てよと。

自分は科学のことを岩のように確実で頑丈な基盤だと思っていた。だから人生を科学に賭けるつもりで打ち込んだ。高2のある日、日経サイエンスで鉄の記事を読んだ。超高純度鉄は塩酸に溶けない。衝撃だった。相対論でニュートン力学が近似値にすぎないと学んだ。科学の本質を知ることは信仰の助けになる。

人生を科学に賭けた人はいっぱいいるしその道を否定するつもりはない。自分の関心は世界の内包する問題の根源とその根本的解決の道筋にあり、当時の自分に考えうる最適な解決手段が科学であっただけだ。今の最適解は、科学の限界を良い意味で知り、その助けを存分に活かしつつ行うキリスト教宣教だ。

科学は鉄のようなものだ。命を育む鋤にもなるし、命を奪う剣にもなる。要は使う人の心次第。鉄の扱い方を改善することより、人の心のあり方を改善することのほうに僕は価値を見出した。それが世界の内包する問題の解決に自分の人生を投入するに値すると個人的に感じた。そう感じるように神に導かれた。

道徳や倫理学を学んでも人の心から悪はなくならない。人を変えるのは愛しかない。本当の愛、真の愛は、見返りを一切求めず、条件を課さず、無限に大きく、広く、深い。そのような愛を人に惜しみなく提供する存在をキリスト教では神と呼ぶ。僕は神を求めていたが神を求めている自分に気づいてなかった。

神の愛はあまりにも尊すぎて、眩すぎて、畏れ多くて、膨大すぎて、人智を超えすぎていて、人には把握できない。神は愛だが、神は人に見えない。神を見る立場に人はいない。科学を突き詰めて神の存在を予期しても、それがどういう神かは分からない。だから愛である神の言葉が肉となった人を神は送った。

その人を見れば、神の愛が一体どれほど純粋で暖かく慈しみ深いのか、分かるほどの人。神を知らぬ古代ローマの軍人をして「この方はまことに神の子であった」と言わしめるほどの人。イエス・キリストはそういう人だった。イエス様は言う「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。僕はその愛を見たい。

神を見たい。そうは言っても肉眼で可視光、虹彩、視神経を通して見るのではない。聖書を読み、神に助けを祈り、イエスのように生きる模倣と試行錯誤を繰り返す日々の体験の中で、ある瞬間、イエスが見える。だから心清めたまえと祈りたい。なぜか?聖書には心が清ければ神を見ると書いてあるからだ。

「心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る」とは、イエスを神の子キリストとして受け入れるような心の持ち主のことを言ったのだろう。イエス様の言葉は清い。清流の水のように混じりけがない。ただ、その純粋さは不純物を徹底的に取り除く己に対する厳しさ、妥協のなさの裏返しでもある。

愛の徹底において妥協ないイエス様の言葉は「敵を愛しなさい」と一見人間には実行不可能な愛の実践を命じることで極限に達する。だが「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と憎しみの礫を受け殺されつつ祈った執事ステパノは一介の人間に過ぎないではないか。なぜその記録を聖書に残したのか。

個人的に思うのだが、使徒でもない食事の用に仕える執事にでも、敵を愛しなさいの実践が可能だったのだから、あなたにも可能なのだということを聖霊は示しているのではないか?敵をも愛せる潜在能力を備えた被造物を全知全能の神が創れないとは言わせないために、証拠として、記録されたのではないか?

敵を愛する潜在能力を人が元々持ってないなら、できなくてもしょうがないだろう。けど、持ってるなら潜在能力を引き出すために、神のトレーニングを受ける必要が出てくる。少なくとも、イエス様の言葉を守りたいと願うならそうだと思う。鍛錬とは辛く苦しいものだ。しかし、希望があるなら耐えられる。

科学に希望を見出す者は、仮説、実験、観察、検証の鍛錬がいかに辛く苦しくても耐える。アスリートは厳しい練習に自ら身を投げ出す。自分は両方ある程度体験したので理解できる。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」愛の鍛錬に自らを差し出したい。

でも、鍛錬に耐えられない弱い人はどうしたらいい?自分にも弱い時がある。というか、いつも弱い。弱さを受け入れ、弱さの中で神の強さが現れるよう祈りたい。自分の弱さに向き合う時、その向こう側から神の介入が始まるからだ。イエス様の教えを守るにはまだまだ足りない自分を知る時、人は神に頼る。

人が誰かに頼る時、絶対必要な前提が信頼関係だろう。それは人に頼るときも、神に頼るときも同じだ。人が神との信頼関係を構築しようとする時、絶対必要な前提が、イエス・キリストの十字架での死が自分のための愛の犠牲だったこと、そしてその死に打ち勝ったイエスが復活したことを受け入れることだ。

イエス・キリストの誕生、生き様、教えの全ては神の愛と正義を体現したものだ。だが、なぜその死に様である十字架と、その死後の出来事である復活を最も強調するのか?十字架と復活は神の愛と正義、そして全知全能の力を人に極限にまで示すものであり、人と神の壊れた関係を修復する唯一の道だからだ。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」イエスはユダヤ人の王として神に定められ、お生まれになった。それは自然現象と国外の識者の証言によって立証され、その真実性を当時の為政者らですら認めた。しかし、認めた後が悪かった。出生直後から幾度も殺害しようとした。

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」私利私欲の手段としての金銭や偽の政治的宗教的地位を、人類が歴史上根源的に求めてきた真理の体現者に優先させた所業のことだ。本物が現れ対比される時、本物を装った偽物が本当は偽物であったと明らかになる。

偽の王の手によって、真の王が冤罪で殺害されただけなら、善を装った悪の勝利として泣き寝入りに終わったのかもしれないが、神は全知全能の力をもって世界に介入し、死者の復活という奇跡を全人類に示すことを通し、善を装った悪を悪として晒し者にし、悪の濡れ衣を引き裂き善を善として明らかにした。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」人が最高の権力と最大の財力を持って組み上げ覆すことが不可能に見えるような策謀が一見成功したように見えたとしても、そのような悪がまかり通る世界を創造するような無責任な神ではないことを、十字架の死の3日後の復活で神は示された。

人は問う。神が全知全能で善なら、なぜこの世に悪があるのかと。悪を放置する神は無責任ではないかと。その答えこそ十字架と復活なのだ。神は愛。愛の前提は自由意志。神との信頼関係が壊れた人は本来は神と人を愛するために授かった自由を悪のために使い始めた。それでも神は人を愛し放置しなかった。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」人との信頼関係の回復のため、十字架で我が子を失うことすら忍んだ父なる神の愛、十字架で己の命を犠牲にしたほどの神の子の愛、それほどの愛。

そのような神の側でなされる人との信頼関係の再構築の努力を人の側の身勝手な理由で受け入れないで無視する態度。これをキリスト教では罪と呼ぶ。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」

キリスト教は自由を前提にした宗教だ。なぜなら神と人の間の愛にせよ信頼関係にせよ、自由意志が前提になっているからだ。自由の反対である強制は剣に例えられる。強制力の象徴である剣を抜いた弟子にイエスは「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と述べ、命すら敵の自由に任せた。

悪の実行者がどれほど酷い悪を行っていても、その悪を強制力で辞めさせることでは、表出される行為としての悪は無くせても、心の中の悪まで無くすことはできない。キリスト教は警察などの強制力の存在意義を否定するわけではないし、むしろ神が立てた権威として積極的に認めている。管轄が違うだけだ。

この世界の悪。人の世の悪。これを病に例える時、強制力による悪の排除は救急医療・対処療法だがそれだけでは寛解しない。病根を排除する根本治療は、自由意志に基づいた神と人の愛の信頼関係の回復だ。その前提になるのがイエス・キリストの十字架と復活を自分と世界のための愛と正義として受容することだ。

人によってはこの受容に際してそれまでの世界観の変更を余儀なくされる。自分も世界観を一度ぶっ壊さないといけなかった。それ以外にこの話を受け入れる方法はなかった。世界観は命に例えられる。イエスは言う「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」

イエス・キリストが提示する世界観や価値観を前にして、これを正しいと感じ、自由意志で受け入れようとする人が経験するそれまでの世界観や価値観の崩壊のことを、キリスト教では「心が砕かれる」と言う。不可抗力で人生が詰んだ人、生死の間を彷徨った人の中にはすでに砕かれた人が多く、受容も早い。

反対に持てる者、独自の世界観と価値観に基づいて築き上げてきた、財産、地位、名誉、人脈、およそ手放すのを惜しいと思えるほどのものなら何でも豊かに持つ人は、その土台を変更することに躊躇する場合が多い。今の土台が砂でイエスが岩だと認識しても。十字架は価値観の前に立ちはだかり決断を迫る。

「無敵の人」という言葉がある。社会資本を持たぬ故、自分にそれを与えずまたは奪ったとみなす社会に対し倫理的制限なく復讐する人だ。砂の土台に過ぎない持てる者の価値観と世界観に縛り付けられた犠牲者だと思う。「持たなくてもいい」と言いたい。イエスは言う「心の貧しい人々は、幸いである」と。

社会科学や心理学には「無敵の人」とその他の人を和解させることはできない。法に「敵を愛さないと死刑」と書いて強制力で脅しても世界から分断や敵意は消ないし平和も来ない。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された」

有史以来、人類が持て余したきた根源的な未解決問題は何か?愛の根源であり愛そのものである神との愛の関係が破綻し、他の人との愛の関係も破綻したことだ。イエスは言う「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

では解決は何か?まずは神を知り、神に善悪の決定権があることを認め、神の子から差し伸べられた和解の手を取ることだ。その手には十字架につけられた時に負った釘の跡が残っている。あなたの苦しみを共に味わったことをあなたに知ってもらうため、あなたのために払われた犠牲の深さを心に刻むために。

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