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幼児とほうれん草とエビ

幼児期は、団地で育った。

その団地は当時、その場所といえばの産業の会社が所有する社宅が立ち並んでいた。

当初住んでいたところは、とても古く、部屋が小さく、冬は雪が降り込むし、シャワーもないし、トイレは和式だった。妹が産まれて、私が幼稚園に入園する頃に手狭になったので、そこからすぐ近所の広い社宅に引っ越し、それから間もなく私にとって実家となる家に越した。

団地の近くには市場や商店街が立ち並んでおり、母に連れられて買い物に行くと自然と多くの人と知り合いになるし、社宅だと社員の奥さんの誰かは必ず見守ってくれていた。そのため、はじめてのおつかいは、独りで行けるような環境が整っていて、ごく当たり前のように、とても小さな時に、劇的なこともなく済ませた。良い時代だったと思う。

父は仕事が忙しく帰りが遅かった。幼児期の私は人見知りで、無口で、ご飯をほとんど食べようとはしないし、ほとんど寝ない子だった。

私は毎晩22時過ぎまで、ご飯はほとんど食べずに父の帰りを待っていた。父が帰ってくると、父の膝にちょこん、と座り、ご飯を食べさせてもらっていた。白ご飯を食べさせるのも工夫がいったそうで、ご飯を醤油に浸したほうれん草の葉っぱでくるんで食べさせたそうだ。少し大きくなって父の帰りを待たなくなってからも、私はそうやって白ご飯を食べていた。

父は必ず晩酌をした。ほとんどの場合は、ビールだった。ビールは缶のままでなく、必ずガラスのコップに移して父は飲んだ。そのビールの泡は、幼児期の私を虜にした。小さな無数の泡が底から沸き上がり、綿菓子とも何とも言えぬ塊が表面にできる。メロンソーダよりも遥かに魅力的なものに、幼児の私には映った。

私がもうじき3歳になろうかという頃に、妹が産まれた。

しばらくは、母が大変だったため、たまに父と二人で外にご飯を食べに行っていた。

それは大概、焼き鳥や、だったそうだ。

幼児にしては、無口であまり可愛げのなかった私は、焼き鳥やでエビしか食べなかったそうだ。

「何食べる?」と、父が聞くと、「エビ!」としか答えなかったそうだ。本当は豚バラとか鳥を食べて欲しかったのだろう。エビは高級品だった。当時あまり給料が高くなかった父は冷や汗をかきながら、ビールを飲み、焼き鳥を食べていたそうだ。そのエビは塩がたくさんかかった、表面はパリパリの、中はプリプリの車エビだったように私は記憶している。

若い父親に、エビ!としか言わない3歳くらいの仏頂面の子どもは、焼き鳥やの人々にどのように映っていたのだろうか、と思ったりする。

でも、あの頃の父は忙しいなりに、とても幸せだったような気がするし、私も心に温かいものが残っている。

今では、魅惑のビールも飲めるようになり、お酒の楽しみも知ってしまった。幼児期に覚えた味、ほうれん草に、エビは今でも私の大好物で、ビールのおつまみである。

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