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ほか♨いど 2
第2章(承)
『組曲』
『ホカ』『ホカ』
『道画』
『流氷群』
にノってみた
郵便局を出て、歩き始めてまもなく(緑色のリュックを背負った男が通過……)どこからともなく声がする。
自分のリュックがモスグリーンであることが頭をよぎった。
誰だ?
監視されている。
右肩は無反応。
つまり、声は耳から入ってきたようだ。
犯人はすぐにわかった。
警官だった。
小さなゲートの前で、小声で無線連絡を取っているその前を、緑のリュックを背負った自分が歩いている。
ムーンウォークでも見せたろか?
(マイケル風ダンスの男が通過……)
前方にまた一人、その向こうにも一人。
彼らが緑色のリュックから目を離すことは許されない。
ここを通りすぎるまでしばらくの間は、国家権力からマークされる要注意人物でいられそうだ。
栗尾根は国会議事堂の裏を衆議院のほうから参議院へ向かって歩いていた。
臨時国会が開催中らしく、警備が厳しくなっているようだ。
議会を見学に来た小学校低学年の大群が門の前で騒いでいる。
赤いジャージの上下、TPOより機能性を重視した教師が、仔羊たちを歩道の建物側へ寄せようと声を荒げている。
その横をよれよれのネルのシャツを着て汚いリュックを背負った若い旅人が歩いていった。すいません。おれです。
国立国会図書館を定位置に決めたことに、特に理由はなかった。日本一の図書館がどれほどのものなのか、見学に来てそのまま居ついてしまった。
利用した感想としては、でかい、きれい、やばい。
でかい。一冊300グラムとして、蔵書の総重量は30,000トンを超える。それでも網走市民がひと冬越せるかどうかは難しいところ。
きれい。ここの職員、アルバイトは顔で選んでいるのだろうか。その割に蔵書のカバーは剥がされていたりする。
やばい。ここからが本題だった。
現在、この国で各国スパイ、エージェント、売国奴がこれほど入り込んでいる場所がほかにあるだろうか。
栗尾根は『探偵マニュアル』の「スパイの見分け方」を参照しながらまる一日カウントしたことがあった。
結果は驚くべきものだ。
「一般人」が5名。
ほか全員が何らかの組織の一員つまり「スパイ」だった(2228名)。
参議院議員政策(税搾?)秘書。
論文の締め切り間際の院生。
定年退職した工作機械メーカーの元工場長。
漫画喫茶と勘違いしている女。
スパイだった。
それもかなり性質が悪い。自分がスパイである自覚のないスパイがほとんど。
彼らの雇い主は、鮫の軟骨。ピンヒール。美顔術。鼠。くじ。水。壺。などなど。
黒幕らしからぬライトでカジュアルな奴らだ。
探偵の時代は終わった……薄野鰐が言いたかったのはこれかもしれない。
名探偵と名犯人が知恵と技術を尽くして闘う。
そんな古典的な解決は、もう誰も必要としていないのだろう。
今や全員が警察、全員が容疑者。
この時代に必要なものは、情報操作。八百長。偽装。偽造。替え玉。それとできるだけ多くの裏金。
否偵、未偵、暫偵、童偵、不安偵の時代が始まった……何かもっといい言葉はないものだろうか。
てなことを考えていると、たちまち日が傾いてくるわけですよ。
そして、ああ、今日も、
「オメェに解かせるジケンはねぇ」
ぽっちょーん……。 ( ( (○) ) )
天士
ブログ「氷の下から来た探偵志望」の更新を終えるとやることがなくなった。
栗尾根の隣には女性のブロンズ像が座っていた。
プレートに一九八四年制作とあるので年齢は二十四、五歳。
名前はPause・ツダ・ヒロコさん。外国人のダンナがいるのかもしれない。
素肌に羽織ったパーカのような上着がはだけていて乳首が露出していた。なるべく首から上を見るようにした。
国会図書館本館入口手前にある自然石を加工したこのベンチが栗尾根の指定席だった。
女性はベンチとともにオブジェを演じていた。
栗尾根は初めて会ったときから、挨拶を欠かさず行い、礼儀を払ってきたが、女性からは目礼はおろか反応自体ゼロだった。
死んでいるのだろうか。
いやいや。一度、コンビニで買ったおにぎりを頬張っていたとき、横眼でちらちら盗み見ていたのを押さえている。
おにぎりはスジコ入りの一個二百円以上する高い奴だった。探偵を甘く見てもらっては困る。
きっと何か頑なな思いがあって固まっているのだろう。ブロンズとはいえ、等身大フィギュアなのだから話すことくらいできるはずなのだ。
栗尾根は〈お気に入り〉から創作サイト「とらなとちのな」へ。
カテゴリー「探偵・ハードボイルド」→スレッド「地域限定・期間限定探偵さん、いらっしゃ~い」をクリック。
自分について、最新の書き込みがないかをチェック。
》》》くりさん、メールチェック、よろしゅう。網羅
チーム網羅だ。栗尾根はアウトルックを立ち上げた。
メールを開くと、「キャラクター表、もうご覧頂けましたか? もしお気に召したキャラがいましたら……」気の早いことだ。
栗尾根はリュックを開け、郵便局で受け取ったA4の封筒を取り出した。郵便はすべて局留めにしてもらい、週末にまとめてキャンプ場で読んでいた。都内では空気のせいなのかあまり長いものは読んでも頭に入らないし、正しい判断も下せない。
とりあえず封を切り、中身を取り出した。登場人物の設定資料のようだ。
●網野羅子(アミノ ラコ)24歳。
道新の敏腕記者。噴火湾開発プロジェクトの汚職事件の取材から黒曜石ピラミッドの謎を知る。メガネ。ソバカス。大酒飲み。ホヤ、ルイベ、メフン大好き。
●富良林貴船(フラバヤシ キフネ)姉17歳。〔*3〕
●富良林櫂乃(フラバヤシ カイノ)妹17歳。
夕張郡栗山千明町にある鳩宮神社の巫女姉妹。予知能力を持つ。戸籍上は双子となっているが、実は従姉妹同士。二人の母親が一卵性双生児で同日、同時刻に出産。父親は双方不明。道内外を問わず政財界に顧客多し。姉妹仲はいいが、ライバル心も強く、二人の間で仕事の話は厳禁。姉の貴船は鳩宮邦夫(クッキー)の相談役。妹の櫂乃は鳩宮由紀夫(ユッキー)の相談役。
●白老藻海老(シラオイ モエビ)777歳。
コロポックル族の超老。通称、白老の婆っちゃ。黒曜石ピラミッドを封印した一族の生き残り。
●ベンケイゴー 5歳。
ばんえい競馬所属の道産子。現在80戦80敗中だが、実はアレクサンドロス大王の愛馬ブケファラスの遺伝子を受け継ぐ神馬。能ある馬は脚を隠す。
●室蘭蘭(ムロラン ラン)16歳。
美少女アイドル騎手。人気者だが、実力はいまいち。だがそれは表の顔。実は北へ落ち延びた源義経とアイヌ首長の娘・シララ姫の間に生まれた子の子孫。全道のヒグマ、エゾシカ、キタキツネなど百獣の頂点に君臨する野獣姫。
●栗尾根天士(クリオネ タカシ)21歳。
探偵。
それぞれイラストも用意されている。
栗尾根は「蘭」に釘づけになった。
これはまずい……「パンチラ騎手」「能ある姫は角を隠して尻隠さず」とか書いてあるし。消されるぞ、チーム網羅。
今回は人物先行らしく、ストーリーはまだついていない。
しかし、このリストのメンバーなら、どうにかなりそうだ。
新聞記者が決死の潜水取材でピラミッドを直撃。
ピカピカの黒い石でできた海底遺跡はビジュアル的にも迫力満点。
ピラミッドを我がものにしようと画策する鳩宮兄弟。
ピラミッドには世界を手中に収める未知のパワーが秘められているのだろう、たぶん。
世界に危機が迫る。
老婆の口から漏れる言葉「其のもの、白き下着を履きて金色の神馬に跨るべし……」
あとは細部を作り込むだけ。
黒幕が鳩宮では迫力に欠ける。
むしろ相談役の巫女姉妹が政治家を利用しているほうが自然だ。イラストでは罪のない笑顔を振りまいているが、実はかなりの曲者と見た。
「父親は双方不明」
決まった。この父親が諸悪の根源。
大物の起用が必要となる。
裏社会の実力者。フィクサー。
例えば、右翼の親玉にして左翼のスポンサーでもある罪団法人A級船舶振興会会長・日本赤卍社総統・世世川両一。
あるいは、JRの前身である神武/軍武鉄道グループを一代で築き上げた政商・進出次郎(激怒すると、ピストル出次郎→撃次郎→殺次郎に変身)。
どちらも倒し甲斐のある相手だ。
栗尾根はふと大切なことを思い出した。自分の役割だ。リストには一応、「ご自身のプロフィールはご自由にお決めください」とあるが、この流れのどこに自分を割り込ませたらよいのだろう。探偵があまり活躍する余地のない話になっていないか。
うっ酒臭っ……酒乱気味の新聞記者に絡まれるシーンが思い浮かんだ。
うっわーっ……蘭にちょっかいを出して馬に蹴られ……明後日へ飛んで行った。
ダメだ。おれの貧弱な想像力ではおれの道は切り開けない。
やはり探偵には作者が必要だ。
北の酒場通りの汚いビルから事件を求めて上京。
大歓楽街。郊外。学生街。高級住宅街。
いろんなタイプの街を調査。調査。調査。
おかしい。これだけ人間がいて事件が起きないわけがないのに。人口四万の市でも年に二人殺され、五人行方不明になっていた。
都内を歩き回り、探し回った結果わかったこと。事件はある。しかし田舎から出てきたものが、いきなりでかい山を掘り当てることなど無理なのだ。
都会では起きた事件は、その場で目聡い奴がすぐに拾って持って行ってしまうのだ。
作戦変更。どこかに腰を落ち着け腰を据えて事件がやってくるのを待つことにした。
網を張るポイントを図書館に定めたのは、そこが蘭を発見した場所だからなのだろう。成功体験もまた人を操る黒幕の一種。
図書館の入口でただ漫然と依頼者を待っていても埒が明かない。
営業活動開始。「貧者のCIA」ネットを利用することにした。ブログを始めた。創作サイトにも登録した。架空の事件を解決して名を上げる探偵も多い。
登録してすぐ反応があった。うれしかった。実際に接触してきたのはまだ数人だが、熱心なファンもついた。気落ちすることなんてない。探偵人生はまだ始まったばかり。自分はこれからの人間なのだから。
ラップトップの電源が切れかかっている。今日はこれまでにしておこう。
「じゃ、また明日」
ブロンズ像はニコリともしない。
事件のない日々は単調にすぎていく。
「今日もよろしく」早いよ、一日。
昼時、人の出入りが激しくなった入口に背を向けて座り、植え込みをぼんやり見つめていると(探偵発見。おにぎり食べてる。遠足気分かよ)。
監視されるのはしょうがないとしても馬鹿にするのは許さんぞ国家権力! とあたりを見回すが、付近には制服も私服もいなかった。
空耳か。妄想か。
》》》違うよ》》》
え。
》》》こっちこっち》》》
どこだ? 相手が見えない。
栗尾根は立ち上がり右手を上げた。こうすると、ぷにの反応が活発になる。
四方へ手をかざした。こうやって動きが激しくなった方向に奴はいる。
敵? まさか、刺客? 鳩宮の……。
》》》アホか?》》》
まったくわからない。こんな遠距離でぷにを使うなんて何者だ。蘭以上の使い手。新型か?
》》》今これが普通だから》》》おっさん、バージョン古すぎ》》》
いた。
国会議事堂を背に、街路樹の銀杏が色づき始めている歩道から階段をこちらへ降りてくる。
母親と子供、に見える。
栗尾根は近づいてくる二人を立ったまま待ち受けた。刺客である可能性もまだ捨ててはいない。
「クリオネさん、初めまして」
女性はにこやかに挨拶しながら向かってきた。子供は一歩遅れてついてくる。
「こちらこそ……」
母親にしては若かった。中学時代に出産しないとこの子の母にはなれない。姉弟にしては年が離れている。それに、どこかよそよそしい。副担任と生徒、とか。
「ちょっと、ご相談があって参りました」
「そうですか」
よろしかったらどうぞ、とベンチを勧めた。ベンチにはクッション代わりにエアマットが敷いてある。
このままで結構です、と女性。
「で、相談と言いますと、事件とか?」
「いいえ。新しい助手のご紹介です」
「助手?」
「はい。ご紹介致します。こちら、伊臥鮭児くんです」
女性の目は異様な輝きを放っていた。逆に少年は下を向いたまま目を合わそうとはしない。
刺客である可能性は低くなったが、もっと厄介なものかもしれない。
「あの、ご存知かとは思いますが」
栗尾根は落ち着いてゆっくりと説明を始めた。
「おれにはすでに蘭ちゃんという助手がいます。彼女は芸能活動もしていますので、常に一緒というわけにはいきませんが、事件が起きれば駆けつけてくれる予定です。まあ、ご覧のとおり現在は開店休業状態ですので、彼女は芸能に専念していますが」
「もちろん知っています。ブログも読んでます」
女性の目は先ほどから輝きっぱなしだ。背後に超前向きな黒幕でも控えているのだろうか。
「でも、いつだったか、もっと安全な助手を募集、という話がありました」
「ああ……たぶん言ったか書いたかしたことはあると思いますが、冗談の範疇ではなかったかと」
「蘭さんよりも優秀ならいいんですよね。この鮭児くんは、ぷにを十三匹持っています。華奢で戦闘には向きませんが、智謀に長けた超エリート少年なんです」
「そのようですね」
蘭の二倍以上! 保有数の差がそのまま能力の差にはならないが、もし使いこなせたなら聖徳太子を超える異能の持ち主ということになる。
少年は話には興味がないのか、ガラスの向こうの図書館内部に目を凝らしている。
「それだけではありません」
少年に何やら耳打ちし始めた。ほら、やってよ、やるのよ鮭児くん。
何が始まるのだろう。体内のぷにを取り出してお手玉でもするのかな。栗尾根は何が起きてももう驚かない気でいた。
女性にせかされ、少年はだるそうな表情で両手を合わせると指を鳴らし始めた。腕時計を外すようなしぐさを見せ、何かを地面に放り出した。
手袋?
栗尾根の悲鳴。
放り出された右手と左手が手首のあたりで結合し地面を移動し始めた。
栗尾根は飛び跳ねるようにそばから離れた。
両手の親指を触覚のように立て、八本の指で器用に動き回る何か。
タランチュラ。
ヤシガニ。
手と手でできた新種の生物。
「ご紹介致します。鮭児くんのアシスタント。助手の助手ズワイたんです」
たん、をつければ何でもかわいくなると思ったら大間違いだ。栗尾根はいつでも逃げられる体勢をキープしていた。
「パソコン、お借りします」と女性。
ズワイたんがベンチに飛び乗った。栗尾根のラップトップに乗ると、指なのか脚なのかよくわからないものを高速で動かし始めた。
隣のブロンズ像は微動だにしないが、失神寸前かすでに失神しているのではないかと栗尾根は思った。
「できたみたいですね」ご確認ください、と女性。
栗尾根が立ったまま黙っていると、
「もういいの。降りて」とズワイたんに向かって呼びかけた。この件に少年は関係ないかのようだ。関係ないのか?
ズワイたんが十分に離れるのを待ってから、栗尾根は恐る恐るラップトップに近寄った。
そこには栗尾根と少年と自分のAAが……不機嫌そうな少年を挟んでVサインをする栗尾根天士&ズワイたん。
「エクセル、アクセス、パワーポイント、縦横無尽に使えます。システムアナリストほか取得済みの資格はすべてこちらの資料に記載してあります」
ズワイたんが少年に這い上がっていった。それとも、少年が引き寄せているのだろうか。どちらにしても、右手と左手は今、少年の一部分に戻ったようだ。
「ズワイたんにもぷにが搭載可能です。すごいと思いませんか? 彼らがいれば、潜入も工作も思いのままです」
「確かにすごいと思います。でも、おれがこの二人……?……二人と組んでどんな事件を解決するんでしょうか? ちょっと、想像できません。むしろおれはいないほうがよくありませんか? すでにコンビが完成しているような気が……」
「いいえ、クリオネさんはいなければ困ります。事件などなければないでいいんです」
「あの……おっしゃっている意味がよくわかりませんが……」
「クリオネさんと鮭児くんが、探偵さんと助手くんであればいいんですよ、私的には」
「鱒鱒鮭が蟹りま鮮が……」
「では、逆にお尋ねしますが、蘭さんに手を出さないのはどうしてですか?」
「はあ?」
「彼女が熊好きだから? 眉毛が気になる? 違うでしょう……フフフ……わかってますよ」
女性は目だけでは足りないかのように鼻の孔をふくらませた。
「クリオネさんは絶対こっちですよ」
「こっち?」
「別にあっちでも構いませんが」
「あっち?……いいえ! 違います!」
「……フフフ……素直になりなよ、クリたん」
栗尾根は女性と少年に丁重にお引き取り願った。
「いいですか。これだけは覚えておいてください。「鮭は若いほどウマい」……フフフ……」
無理やり掴まされた資料一式を手に、栗尾根は倒れるようにベンチに腰を下ろした。
「お騒がせしてすいません」
ブロンズ像に語りかけた。
「いや……参りました。腐鮭た話ですよ。この国はどうなっちゃうんですかね」
目を移すと議事堂が見えた。与党×野党。野党×与党。
「もうどうにかなっちゃったあとだな」
》》》おまえがどうにかなれ》》》
まただ。
》》》おっさん、マジいらねえって》》》
》》》ボクと蘭が組んだほうが人気出るから》》》
》》》じゃあな》》》今度会う時までに、頼むからくたばっておいてくれ》》》
精神的ダメージを口実に早めに店仕舞することにした。
今日は金曜日。
さらば東京。
レンタカーで道志川の支流に沿った広大なキャンプ場へ向かうことにした。
そこは上京以来しばしば訪れるお気に入りの場所だ。
川がきれいで、樹木が多く、山も近い。
しかし、何と言っても売りはその広さだ。
シーズン中でも予約なしに余裕でテントが張れた。
近場で環境もよく人気も高いのに、それを上回る面積を誇っている。栗尾根には絶好の隠れ家だった。
オフシーズンを迎えたキャンプ場にテントは数えるほどしかなかった。
車を降り肺いっぱいによく冷えた大気を吸い込む。
極楽。手早くテントを張り終え、川岸に折り畳みの椅子を置いて、しばし休憩。
栗尾根は別にアウトドア好きでも何でもなかった。テントもシュラフも新宿のショップで初めて手にした。
北海道では事務所から一歩出れば町、もう一歩出れば、いきなり海、森だ。
ところが都会はどこまで行っても家の中。
ここまで走ってやっと家の外。
自分はずっと家の中が好きだと思っていたが実は、森の中の家の中、海の中の家の中、が一番落ち着くのだとわかった。
小さな渓流の緩い瀬の中を黒い影がよぎった。
細長い影は大きな岩の下の深場へ吸い込まれていった。
ご紹介致します、イワナたんです。
こうして自然の中にいると、決まって思い出す人がいる。
その人は、両親でも友人でもなかった。
一度会ったきりで、話したことさえない。
会ったことすら長い間忘れていた。
その人は雪の中に倒れていた。
授業中、グランドの真ん中に横たわっている男をクラスメイトが発見した。
死んでる。
誰か、救急車。
いや、警察警察。
大騒ぎになった。
違う。
教師が言った。
死人じゃなくて、あれは詩人だ。
教師が外へ飛び出し、男へ近寄っていった。
男が起き上がった。
生きていた。
教室に招かれた男は、汚い身なりをしていた。
浮浪者に見えた。
だが、詩人だという。
教師がひどく緊張している。
えらい人なのかもしれない。
男は「雪を見ていました」と言った。
寝ころんで空を見るとよく見えるのです。
おかしな人だった。
頭のネジが少し緩いのかとも思った。
教師のリクエストに応えて詩人は自作の詩をいくつか朗読してくれた。
教師と女子が二名泣いていたのが印象的だった。
鮭口安魚。〔*4〕
一度は記憶から消えたその名前を再び目にしたのはずいぶんあとになってからだ。
何か大切な仕来たりを破ったために村を追われ、失った故郷を求めて何十年も道内を巡り歩いている放浪の詩人だった。
故郷が見つかるまで旅は続く。
しかしそれは絶対に見つかることはない。
会ったのはもう十年以上も前のこと。
亡くなったという話は聞かない。
彼はまだあの大地のどこかをさまよっているのだろうか。
その週末、キャンプ場に蘭は現れなかった。
栗尾根は小枝を拾ってコーヒーを沸かし、あとは淵と瀬を行き来するイワナたんをただ眺めていた。
月曜の朝、レンタカーを返しキャンプ道具一式をトランクルームに預けて、栗尾根はまた東京メトロ国会議事堂前駅から地上へ浮かび上がった。
いつもの郵便局で書籍小包を受け取った。何だろう。チーム網羅が本を送ってきた。
まさか、許可を待たずに先に書籍化してしまったのか?
挨拶を済ませ、無言のブロンズ像の横で早速包みを解いた。
中から出てきたのは、斜塔猶予著『一三二七小節のベアーハッグ』。
網羅によると、同作品は学校法人網走学園網走高等学校・千葉七郎記念文学賞第二回受賞作品で網走市北見市紋別市だけで初版五千部が完売、アマゾンでも入手困難な状態とのこと。
内容は、親を亡くした仔熊と少年のラブストーリー。いわゆるBB(ボーイミーツベアー)小説。
「熊好きの蘭様へどうかと思いまして……」実は蘭マニアか、網羅。
熊萌えはよくわからない。だいたい蘭は熊が出てこない話は、小説として認めない文学観をお持ちなのだ。
蘭のお薦めは、吉村昭『羆嵐』、救仁郷茂『お嫁さんと仔熊』、J・アーヴィング『ペンション・グリルパルツァー』、畑正憲『どんべえ物語』、米状粒太郎『大相撲熊場所』、鹿熊牙彦『つめあとⅲⅲ』……。
蘭曰く「熊が書けずに人間が書けるわけないでしょ」そ、そうか?
蘭の熊キチは母親が妊娠中夢枕に巨大なヒグマが現れたのが原因だと言われている。自分の前生は熊だと頑なに信じ、熊ドルになって手軽に熊と触れ合えるベアーランドを建設するのが夢だという。空前の熊バブルでも来ない限り無理だろう。
(おっ、読んでる、読んでる)
出たな! 伊臥鮭児。
栗尾根は眼光鋭くあたりを警戒した。
考えたが、あのズワイガニは情報収集よりも暗殺兵器として使える。忍び寄って首を絞めたり、ナイフを持たせて刺し殺したり。少年も蟹もすでにあの原作者の意図を超えた存在。まったくやばいものを生み出してくれた。
「いやー、お会いできて感激です」
真うしろ。栗尾根はベンチから飛び退いていた。
背後にいたのは、痩せた眼鏡をかけた見知らぬ男。
「あっ、驚かせちゃいましたか」すいません、と頭を下げた。
男はニコニコ微笑んだまま、何かを待っている。
「どうも……」とりあえず、言った。
男はまだ微笑んだまま。どことなく気持ち悪い男だ。
「あの……ごめんなさい。前にどこかでお会いしましたか?」
「週に二回はお会いしております。主にネットと郵便で」
「……もしかして、網羅さん?」
「もしかしたら、網羅です」
これは大変失礼致しました、と恐縮する栗尾根。倶楽部クリオネ会員番号001番様(もしあれば)のお出ましだ。
男はチーム網羅の一員、シリーズ構成&音楽担当の、
「あらためまして、私「寒獄院流氷」と申します」
「栗尾根天士です。こちらこそよろしくお願い致します」
「早速ですが、クリオネさん。私、本日あまり時間がございません」
寒獄院は早口で自分の状況を説明していく。今日は玉葱の全国大会で上京した。小麦の刈入れがあるので午後一の飛行機で帰らなければならない。でもせっかくなので、感触を確かめようと思い駆けつけた。で、どうですか、今度の新作は?
「えーと、ですね……」
読んでいなかった。
例のピラミッドの続き。
追加の設定資料とストーリーの概略。
キャンプ場で確かに開封はしたのだが、目を通さないままリュックの中にまだ入っている。安魚とイワナたんのせいだ。
「かなり、いい線かと思いますが……」
「そうですか!」
初めての会談は十分足らずで終了となった。
栗尾根はあたりさわりのない誉め方に終始したつもりだった。
しかし、意気揚々と引き揚げていく寒獄院のうしろ姿を見送りながら、大きな間違いを犯したような気がしてきた。国会議事堂の見える場所で「前向きに検討させて頂きます」は言いすぎだった。
寒獄院はホクホク顔で北ウイングから飛び立つことだろう。
仕方がない。
栗尾根はリュックを探って、封筒を取り出した。KWなどと言っている場合ではない。
ブロンズ像の隣で資料をめくり始めた。
[こちら談話室]
》》》小説北海道開拓史ダイジェスト版
2003年旧サイト「創作掲示板」にて「探偵栗尾根天士、助手室蘭蘭で北海道限定ミステリーを」こまりんの一言からすべてが始まる→
→天士&蘭第1シーズン(リレー小説)がスタート→
→2005年天士&蘭第3シーズン終了。有力な書き手の一人つるおか事務所が新サイトを立ち上げ。書き込み編集が自由自在に→
→第4シーズンスタート→新たな書き手青アニが登場。シニカルな一人称に追随者激増→
→つるおか事務所が本業繁忙のため撤退。監獄博物館が新たな管理者に→
→青アニ第4シーズン~第8シーズン(殿堂入り)の中心的書き手に→
→2008年第9シーズン「上京編」がスタート→
→謎の創作集団チーム網羅現る。青アニとの主導権(人称)争い始まる→
→管理者監獄博物館がまさかの参戦。三つ巴の戦いに発展。難民化した他の書き手は談話室へ避難→
→チーム網羅と監獄博物館がタッグ? を結成。共生文体が誕生。プニキタス社会の到来。青アニ一気に劣勢に→
→チーム網羅がキャラとして本文に登場。地上戦始まる→
→青アニ本文から退却。脚注へ亡命→
→本文は共生文体一色に。一方、脚注は台湾化→
→2009/4/1本文と脚注の間に軍事境界線(ブラキストン・ライン)が引かれる→
→凍晒冷戦始まる←いまここ
ほか♨いど 3
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