高校時代のはなし④K先生(最終回)
私の高校生活が変わるきっかけとなったK先生との関係について、今回で締めくくりたいと思う。
前回までで自傷行為をするほど追い詰められていたので、そんなに急に終わるの?と思われるかもしれない。
もちろん、自傷行為が見つかり対処があったあとも、高校の3年間K先生が怖くない日はなかった。本当に洗脳されてしまい、抜け出した後のトラウマが強く残った。学校にいたら殺されるかもと感じるくらい、不安と居心地の悪さがあった。
だが、母が私の体の傷を見つけて学校に掛け合ってくれたおかげで、先生の支配下からは少しずつ抜け出すことができたと思う。
11月の中旬、母が私のセーターの袖をめくって傷だらけの腕を発見した。
そこから私はどれだけ学校がストレスだったか、古典の授業に出るのがどれだけ怖いか、母に泣きながら改めて話した。
怖くて聞けなかったが、母は学年主任に電話したのだと思う。
「とりあえず○○日までは休もう」
死ぬほど嬉しいけど、恐ろしい言葉だった。10日くらい休める日があったと思う。
毎日学校に行くのが当たり前、そうでない人は社会不適合者だとされているのは分かっているが、もう学校に関わること全てが怖いなかで、突然貰えた10日もの長い休み。
毎日毎日、「自分を大切に、好きに休もう!」という気持ちと、「普通の人は頑張って行っているのに、お前だけおかしい」という罪悪感が交互に襲ってきたが、やっとつかの間の解放感を感じられた。
しかし、その間にもK先生から電話は掛かってきた。
「宿題とプリントは机の中に入れておきましたが、多めなので早く取るように。」
「いつまで休みます、なんて連絡の仕方は校則に反するので、お母さんはきちんと毎日電話するようにしてください。」
私のせいでお母さんにまで嫌な思いをさせてしまっているし、何よりまだ先生に監視されている気がする。
一生このまま休み続けたい。
が、当然終わりは来る。あっという間に1週間が過ぎた。
1度離れてしまったことで、どれだけ自分が先生に依存していたかが少し見えて、怖い。
1度「学校に行かなくてもいい」時間を過ごしてしまったことで、あの地獄のような場所に、日々に、戻りたくない。
休みが終わる前日、まず日曜日にスクールカウンセリングを受ける機会を貰った。ここに来る前にも相当抵抗したが、恐怖・不安に押し潰されそうなことや、直前まで泣き叫んでいたことを人に絶対に悟られないように、ニコニコしながら訪問者用の玄関を通って学年主任の元へ行った。
「元気か?」
「はい、元気です。すみません。ありがとうございます。」
いつでも元気に、礼儀正しく丁寧に。私は不登校の社会不適合者なんかじゃない。 涙を堪えながら必死に完璧な私を演じた。
当時は自分に価値なんてないと思っていたから考えもしなかったが、学年主任の先生もきっと私をどうするかという会議を踏まえて気を遣ってくれていたのだろう。変に声はかけず、そのままカウンセラーの先生を紹介された。
カウンセラーの先生の話も後でしようと思う。
とりあえず、カウンセリングを踏まえて、私は保健室登校を勧められた。「全部来なくていいんだよ、自分に優しくしてね」と、とっても理解の深かったベテランの保健室の先生が声を掛けてくれた。
ここでも相当な葛藤があったが、私はこうして保健室登校を始めた。
この時点では、私が休んでいる理由は単に「メンタルが弱いから、打たれ弱いから」というのがK先生含め大体の先生の認識だ。(まあ結局最後まで変わらなかったが、)私がお願いしていた事もあり、まだ特に誰が、何が原因かは本人には伝わっていなかった。友人には、「面倒臭いからサボっちゃってるわ〜笑」と誤魔化していた。
保健室登校を始めて1週間も経たないうちに、K先生が私を訪ねてきた。保健室の先生には通して大丈夫かと一応確認されたが、私はノーと言えない人間なので、「先生も私を傷つける気持ちはないはず、良い人なはず」と自分に言い聞かせながら、保健室の外の廊下に出た。
今思えば、この時先生が私をわざわざ廊下に出したのもおかしい。周りに誰もおらず、たった2人の状況。保健室を恥ずかしいと思っていたからだったか、それとも以下の言葉は不適切だと自覚していたのだろうか。とにかく、誰もいない保健室前の廊下で2人きり、私が言われたのはこんなことだった。
(全然まとまっていないが、これは母が取っていたメモ笑笑。実は私はこの時相当怖くて、何か言われたけどその内容は全く忘れていた。記事のために聞いてみたら見せてくれた。)
全ての言葉がグサグサと刺さったし、何より先生という絶対的存在にこれを言われたことが相当な恐怖だった。(本当にカルトのような感覚だった。)
解説をするとしたら、英語の標準クラスに関しては、英語だけは誰よりも成績が良かった私が、学校に行けないからと標準クラスを勧められた(=ノーと言えないので決定)ということ。楽しみやプライドを奪う言葉だった。
少しずつといってもほとんど出てないという言葉は、他の人の前では優しくゆっくりでいいと言ってくれたK先生の本性が見えたようだった。加えて、社会人皆の意見の様にも感じた。
「C組で」以下は、他のクラスで恐らく私の話をしていた時の言葉。友達が悪気なく教えてくれた。
この日、家に帰ってすぐベッドで毛布にくるまって、恐ろしい世界から隠れるようにうずくまった。そして、夜中まで1度も止むことなく泣き続けた。
朝になってやっと、隣に居続けてくれた母に何が起きたかを話せた。
ここからまた学校に行けなくなったこともあり、母はすぐにこのことを学校に訴えた。母の話を聞いた主任は教頭の所に行ったそうだが、教頭先生がK先生に確認したところ、「そんな事は言っていません。」と言われたそうだ。誰も見ていなかったし、K先生は学校の中でも1番できる先生。私は彼女についていけなかった、社会不適合の1人の弱い生徒。
他の人は何も出来なかった/しなかったので、理解のある保健室の先生や学年主任の先生の計らいで、結局私はK先生と出来るだけコンタクトは取らなくて済むようになった。個人的に指導されることはもちろん、授業中指されることもないから安心して、と言われた。
だがそれは、K先生に「あなたのせいで学校に行けなくなった」ということが伝わったという事。私は彼女の中で、痛い母親を持っているメンタルが弱い面倒臭い子となった。
そして次の日からぱったりと、挨拶されることも無くなった。透明人間として扱われ、時々他クラスで私の噂話のような事を言われるだけ(私のような人は大学に行けない、といった内容)。たった数ヶ月前まで一緒に日本一の大学を目指そう!と期待されていた私は、いないものとして扱われた。
もちろん、先生にも一生懸命さや気遣いの気持ちがあったことはよく知っている。だがやはり、この突然な関係性の変化は気持ちが悪かった。
結局高校三年生まで、すれ違う度にただ気まずいこの関係性が続いた。私は先生を責めてしまったことや、結局彼女の授業には出来るだけ出させてもらい、学力を上げてもらったのにも関わらずお礼ができなかったことは、申し訳ないと思っている。しかし同時に、彼女が居なければ「普通に」高校生活を楽しんで、青春して、卒業して、全く違う人生を送れたのも確かだ。高校の半分も学校に行けず、大切な友達との行事や些細な日常のできごとを逃すこともなかっただろう。
人を量ることなんて出来ないから、K先生に対するこの複雑な気持ちは、このままでいいと思っている。好きとも嫌いとも、良い人とも悪い人とも言えない。
高校1年生、たまたま出会ったK先生に期待され、その期待に依存して頑張ったが、自己嫌悪に陥り、その結果心がボロボロになってしまった。
彼女に出会ってから大学に入るまで、高校や家という狭い世界に閉じ込められて出られない気持ちはずっとあった。が、同時に、自分と相当長い時間向き合えたし、「普通の」高校生活ではできない、かけがえのない思い出もある。
彼女は「きっかけ」のような人で、まだまだ色んな人、物、事について話すことがある。だがとりあえず、私の高校時代を大きく変えたK先生との話は、ここで終わりにしたい。
完全に抜け出した今も、彼女との関係下で感じたストレスや経験したトラウマはぼんやりと、しかししっかりと心に残っている。充実した大学生活をおくっている今会っても、体がすくむと思う。
最近、私と先生の関係を”toxic relationship”というピッタリな英語で表してもらった。私にとっても、toxic relationship(有毒な関係), abusive relationship(暴力的な関係) という言葉がとてもしっくりくる。
私の他にも、恋人や家族関係にある人などと、このような関係に陥る人は世界中に多くいる。
抜け出さなければ自分が危ないと思ったなら、どんなに難しく思われてもまず人に助けを求めなければいけないと思う。
次回から少し楽しい話をしようと思う。高校の時にやっていた、ESS部(英語部)での活動についてだ。
「純ジャパ」の私が英語のスキルを伸ばせた一因でもあるので、英語の勉強法の話も兼ねてしたいと考えている。
今回もありがとうございました。また次回で会いましょう!
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