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うつ病が完成する前に逃げた話【デザイナーを1年半で辞めた理由】

今の私の職業は医療専門職です。

この状態になるまでにデザイナー業界に身を置いていた時期があります。今回は、「グラフィックデザイナーだったころに心が死にかけた」というお話です。

デザイナーに「なりたかった」

現在の医療専門職に就くための専門学校に通い始めたのが27歳のことです。

それ以前はほとんどニートのような日々を2年間近く過ごしたのですが、そのはじまりは1年半務めたグラフィックデザイナーから足を洗ったことにあります。最後は逃げるようにして辞めました。

鬱の手前のような状態になり、仕事を続けることに身の危険を感じたからです。退くことがまだ選択肢にある段階でした。

そもそも、なぜデザイナーになったかというと『デザインが好きで好きで仕方なく、どうしてもそれを仕事にしたいんだ』という強い気持ちからではありません。


デザイナーに「なりたかった」んです。この違い、わかりますでしょうか。


21歳の全能感

デザイナーを目指したのは、大学3年生のときです。

就活を考えたときに、自分はどうにも普通の会社で働く人間ではないと思いました。意識だけは昔から高いのが自慢です。進学したのは文系大学で、多くの人が営業か事務かその界隈かになるという宿命を背負っていました。

当時、知人に紹介されて読んだ自己啓発本『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー著)が良くも悪くも、自己肯定感の強めな21歳にかなり影響を与えたようです。

『一回しか生きられないんだから、仕事を通して何か生み出せるようなクリエイターになりたい』と考えました。

自分ができることは、強いて言えば絵が少し描けるかなと。昔からよく描いていました。


(でも美大に通っているわけではないし、美大生に比べたら地を這うようなレベル…絵じゃなくてグラフィックデザインなら仕事にできるかも?)


調べたら、大学に行きながら通えるデザインスクールがあるじゃありませんか。しかも週末だけの通学でいいらしい。

神奈川県横浜市の馬車道にあったデザインスクールの説明会に行き、その日のうちに契約して帰ってきました。倉庫をリノベーションしたという、コンクリート打ちっぱなしの斬新な内装の施設に圧倒され、みなとみらいの爽やかで広けた景色に魅了されたのか、勢いの良さがおそろしい21歳です。

そうして大学4年生は、大学の授業を受けながら(必修単位がまだまだ残っていて普通に通う必要があった)、週末はデザインスクールに通う生活を送っていました。

目指している間は本当に楽しかったです。

その間はこれから歩む道が私にとってつらいものになるとは予想だにせず…


「やりたい」じゃなく「なりたい」で仕事を選ぶと身を滅ぼしがち

「なりたい」は「やりたい」よりも思いの効力が続きません。

無事になったあと(目的を達成したあと)はすでに叶ってしまっているので、それを続けるモチベーションを維持するのが難しいのです。心に余裕がない場合は特に…

「やりたい」と思い、やっていった結果で「なった」。これが失敗が少ないです。

(ここでは、目的とするものを達成し、その状態を維持できていることが成功と捉えています)

「やりたい」というのは大体がその行為自体が好きなため、飽き性でなければ状況が悪くても維持するのはむずかしくありません。

「なりたい」が求めているのは、憧れている「状態」です。
なることがゴールなので、そのあとふと考えるのです

『さて次はどうしようか』と。


「なりたい」でデザイナーになった私のような思いの弱い人間にとって、デザイン業界特有の労働環境の悪さが追い討ちをかけ、デザイナーを続けるための気持ちを持ち続けることが困難になりました。

『なんで私ってデザイナーになりたかったんだっけ?』という状態になってしまったんです。


床に敷いたコピー用紙の上で眠る日々

これが24歳の年頃女子の日々でした。
勤務地は東京都港区の表参道だったので、そこだけ優勝してました。


デザイナーは花形というイメージがあるかもしれません。ノマドでmacbookを片手にスタバやその類のおしゃれスポットで優雅に仕事をこなす…


え、それってどこの業界の話ですか?


グラフィックデザイナーは技術や経験によってアートディレクター、さらにクリエイティブディレクターとレベルアップしていきます。
そのような殿上人なら余裕を醸して仕事をしているかもしれません。

私のような下界のグラフィックデザイナーは、所詮は相手(クライアント)よりも立場が低く、相手の都合によっては夜通し働く必要が生まれます。


定時はあるようでありません。
デザイン業務は費やす時間に個人差があり、新人ほど多大な時間をかけます。そのため残業代という概念がないところがほとんどかと思います。

私の職場にはベッドやソファもなく、眠たくなったらコピー用紙を床に敷いて眠ります。カーペットが敷いてあったのがまだ幸いです。

朝、目覚めて1時間かけて1人ぐらしの自宅に帰り、お風呂にだけ入って、また再び1時間の満員電車に乗って出動します。

心が折れた決定打となったのは、当時担当だった曲者クライアントと折り合いがつかなかったことです。
その方にデザインしたものを強めに否定されるたびに徐々に自信を失い、何かを生み出す気力が湧かなくなっていきました。

元々は寝たら嫌なことも大体は忘れることができる私でしたが、

何せ「連日寝不足」。
そう、まごう事なき「連日寝不足」。

受けたダメージを修復するタイミングがなく、お気持ちは段々と着実に衰えていきました。

あの全能感はどこへやら。

不思議ですが、生み出したデザインやアートって否定されるとまるで自分自身を否定されてるかのような気持ちになるんですね。

創造物というのは余裕から生まれます。
妊娠と一緒ですね。

睡眠時間もうまく取れず、休息もできず、平日の仕事後の友人との食事を直前でキャンセルしたことは何度あったか。

このような生活様式で、最高14連勤ほどしたあたりから精神が崩壊していきました。


デザイナーは気軽になれるものではない

デザイナー当時の仕事内容は、日本各地の人に私が手がけたものが目に届くような全国誌をデザインするというものでした。今でもコンビニで普通に売ってます。

『思うようにデザインができない。
 だけど他の社員も手一杯で託せない。
 私1人でなんとかしないといけない』

やっと1つ片付く思ったら、かぶさるようにまた新しい案件が降ってくる、という無限地獄です。

ある日には、のしかかる責任に耐えられなくなり勤務中に外の空気を吸いにいきました。突然動悸が激しくなり、息をするのもむずかしくなり、もう何も考えられない状態になりました。


しばらくそこで立ちつくしていました。


職場の先輩たちはとてもいい方でした。
あとで聞いた話ですが、その頃の私が発する空気は明らかにおかしかったといいます。雑談に加わる余裕もなく、死んだようにPCに向かっていました。

そんななかで、友人に会える機会がありました。
会った瞬間に大泣きしたのを覚えています。
そこは表参道駅の改札でした。


違う仕事をしている今、当時を振り返って思うことがあります。

『デザインスクールに1年半通って、頑張ってなったデザイナー。踏ん張ってつづけていたら、道が開けたかもしれない』

『デザイン自体から逃げる必要もなかったんじゃないか』

しかし、あのときは私に関わるすべてから離れたかったんです。
どう考えてもつづけることはできなかった。
あのときの私は何も生み出せなかった。

デザインから離れるという決断は私を守るベストな選択だったと思います。

労働環境がまともだったら続けていられたでしょう。実際はホワイトなデザイン会社はほとんどなく、相手ありきな業務の性質上、どこも時間との戦いが待っていると予想されます。

これからデザイナーを志す方は、「憧れだけではとても務まらない」と知ってほしいです。まったく優雅には働けません。

体力的にも金銭的にも(大手以外は基本的に、下積み時代が本気で低賃金です)自分は耐えられるかなど、デザイン業界の実情を調べた上で臨んでいただけたら、というのが私からの遺言状です。


一度鬱になったら完治困難、なる前に逃げるべし

さて私はというと、なんとかギリギリのところで、自分の感情をコントロールできなくなる前に退職をしました。

限界を感じはじめてから、4ヶ月後のことです。辞める選択肢をとれたことを褒めてあげたいです。


それでもまだ「なりたい」に突き動かされた人間の次の目的地は、理系大学生でした。


生物を扱った分野の仕事に就きたいと考え、大学の再受験をするために、無職になった私はとりあえず地元に帰りました。

そして宅浪(=自宅浪人)という名のニート生活が幕を開けるのです。たまに塾講師のバイトもしてました。


私はあの極限状態を鬱、パニック障害の症状だったと自分では思います。


ですが心療内科にかかったわけではなく、その症状に診断がつく前にニート期間をはさむことで、少しずつ自尊心を取り戻していきました。夫と出会ったのはこの時期です。


辞めてからも以前はよく描いていた絵がしばらく描けなくなりました。
創作意欲が枯れ果て、何かを生み出す力がどこかへ消えてしまったようです。

結局、大学再受験は失敗しました。
今となってはそれもそれでよかったと思います。


鬱は一度かかり、治療をしても再び同じような状況に陥るとまたいつでも簡単に気持ちが折れてしまいます。

あのときの不快な感じを今でも鮮明に覚えています。


だから私はその気配を感じると、すぐに手を抜いてブレーキをかける癖がつくようになりました。

この防衛システムを後の医療専門学校の実習中(これも同じく鬱手前になりかけた)に発揮し、指導者から「自分で限界を決める癖がある」などと苦言を呈されたことがあります。

正直、うるさいわと思いました(必死)。


頑張りすぎないというのはときには自分を守ることになります。

一度逃げたって死にません。むしろ逃げないほうが死んでしまいます。

そこまでして何を守りたいのでしょう、そんなものがあってたまるかと思います。


鬱は真面目で責任感の強い人がなりやすいといいます。
私はそれに当てはまっているとは思いません。

ただもっと早く逃げてしまってもよかったんじゃないかと思います。
そうしなかったのは、せめてもの私の責任感からでしょうか。

逃げたおかげで今があります。
ニート(ではなかったよね)をはさみながらも、まったく違う仕事をしている私がここにいます。今が一番楽しいです。

逃げた先の生き方は、まず逃げてから考えたって遅くないんです。正社員だったとしても、一度アルバイトになったっていいじゃないですか。


もうなんだっていいんですよ、生きるのが大事。


なによりも大事なのは誰でもなく、あなたです。

あなたさえ健やかでいれば、世界は適当でいいのです。

お願いだから、自分を追いつめないでください。
追いつめていいのは、ぶつかる壁までまだ余裕があるときだけです。
目の前はもう壁ではないですか。

精神に負担をかけないでください。
逃げてもいいんです。
あなたがいちばん大切しないといけないのは、
あなたなんですから。


最近、ようやく絵をまた描きつづけられるようになってきました。
私にとって絵を描けることが一種のゆとりバロメーターになっています。


子どもができる余裕もできてきたかな、どうでしょ。

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