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安土城、いよいよ最終回✨

こんにちは!hm384352です✨
今回はいよいよ安土城の最終回、天主についてお話していきます!

まずは天主と天守の違いからお話しましょう。
この2つ、読み方は同じ「てんしゅ」ですが、何が違うのでしょうか?

「天主」の方は織田信長ぎ使い始めた名称とされており、「天守」と使われ始めたのは1931年以降のことだったとされています。

さらに「天主」には主の文字が使われており、天=神を随える主と書くことから信長はあらゆる神をも随えるのは自分であるという考えから「天主」と付けたのではないか等諸説言われています。

話を元に戻して安土城の天主についてです。
皆さんは安土城考古学博物館や安土城天主信長の館、安土城郭資料館を訪れたことはありますか?

そこには天主が復元されて展示されています。ですが、その天主の解説をしている解説パネルの下の方に「〇〇氏復元案」と書かれていると思います。

前回の記事でも書いた様に安土城の主郭部は原因不明の火災により焼失しています。その為、実際の天主について記述する資料は『信長公記』の初期編纂形態をとどめている『安土日記』と、ルイス・フロイスの『日本史』と極少量です。またこれら2つの資料でも記述が若干異なっています。

このように正確な天主の構造を描いている資料も無いことから研究者達は色々な天主を想像し復元案としているのです。

また発掘調査でも後でお話しますが、一応の成果はでていますが、たとえ地表面のことは分かってもその上を想像することは出来ません。

信長が造った天主は一体どんな構造をしていたのでしょうか?

今回は発掘調査の成果と研究者達が出している復元案の中で特に3人の復元案にスポットを当て、天主を想像していきたいと思います!

是非この続きを読んで皆さんなりに信長が造ったであろう天主を想像していきましょう!!

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